背景
安息日についてのイエス様と敵対者との最初の論争は、2章の23-28節に出ています。これは2番目のものです。安息日の決まりを細かく守ることは、ファリサイ派の人々にとってはメシアが来られることと人が救われることのなくてはならない条件でした。
質問
注:かっこの中の質問は、前の質問に答えがないときにだけ読んでください。- 手が萎えていることは、この人の生活にどんな妨げをしましたか。
(仕事、経済面で、家族関係、神との関係など。当時、片手の人にどんな仕事があったでしょうか)- 5節を見ると、この人の手は元々は萎えていなかったことがわかります。事故か何かで手が使えなくなったとき、そのことで彼はどんな思いをしたでしょうか。
- この個所から、この人はどんな性格だと思いますか。
- この朝、会堂の雰囲気はどうだったでしょうか。
- この個所から、彼は手を治してもらうために会堂へ来たのではないことがわかります。何のために来たのでしょうか。
- 彼はなぜイエス様に助けを求めなかったのですか。
- 手の萎えた人とファリサイ人がこの安息日になにをしに会堂へ来たか、それぞれを比較してみてください。
- ファリサイ人たちがイエス様に面と向かって批判しなかったのは、なぜだと思いますか。
- ファリサイ人たちは、手の萎えた人をどう評価していたでしょう。
- イエス様が、彼が座っていたその場所で治さないで、みんなの前に連れ出されたのはどうしてでしょう。
- 誰にこのように言われても、彼は応じたでしょうか。
- 4節で、イエス様はご自分と敵対者たちの意図をうまく示しておられます。「命を救うことか、殺すことか」というような強い表現を通して何を言おうとされましたか。
(ファリサイ人たちの態度は、どういう意味でこの人を殺すことになりますか。イエス様はどういう意味で彼の命を救われましたか。) - 福音書にはイエス様の怒りはあまり書いていません。この時イエス様が怒りも悲しみも覚えられたのはなぜですか。(5)
- 萎えた手を動かそうとした時、この人はイエス様を何者だと思ってそうしたのでしょう。
- イエス様は私たちにも同じような信仰の第一歩を期待しておられます。皆さんにとって、その一歩とは何ですか。
- イエス様を殺そうとするほどファリサイ人たちを怒らせたのは、イエス様のどういうところですか。
- この個所からすると、ファリサイ人たちの信仰はどのように間違っていますか。
- ご自分の命を危うくしてまでこの人を癒すことが、イエス様にとって大切だったのはどうしてですか(4)。
- 4節にあるとおりに「善を行い、命を救われた」のに、なぜイエス様は殺されたのですか。
よき知らせ
イエス様とファリサイ人の安息日についての解釈は違います。ファリサイ人にとっての安息日は救われるために守らなければならない律法でした。
一方、イエス様にとっては福音のひな型、つまり罪の赦しを信じる人に与えられる神の休息のことです(ヘブル4:9-10)。