エレミヤ 29:24 あなたはネヘラミ人シェマヤに対して告げよ。
29:25 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、お前が自分の名で、次の手紙をエルサレムのすべての民と、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤと、すべての祭司に送ったことに関してである。
29:26 すなわち、『主は祭司ヨヤダに代えて、あなたを祭司とし、主の神殿の監督とし、狂い、預言する者すべてに手枷、足枷をはめ、取り締まらせた。
29:27 それなのに、あなたたちに預言しているアナトトの人エレミヤをなぜ取り締まらないのか。
29:28 エレミヤは、バビロンにいる我々のところにまで手紙を送って、捕囚は長引くので、家を建てて住めとか、園に果樹を植え、その実を食べよ、などと言ってきた。』」
29:29 祭司ツェファンヤは預言者エレミヤに、この手紙を読んで聞かせた。
29:30 そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
29:31 「すべての捕囚民に書き送れ。ネヘラミ人シェマヤに対して主はこう言われる。シェマヤは、あなたたちに預言したが、わたしは彼を遣わしてはいない。彼は偽ってあなたたちを安心させようとしている。
29:32 それゆえ、主はこう言われる。見よ、わたしはネヘラミ人シェマヤとその子孫を罰する。彼には、この民の中に住む子孫は一人もいなくなる。また、わたしがわが民に行う恵みの業にあずかる者は一人もない、と主は言われる。彼が主に逆らって語ったからである。」

詩篇 126:1  都に上る歌。 主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう 「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

マルコ 8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

イエス様が盲人を癒された時の記述は、なぜこのような回りくどいような仕方で癒されたのかと考えると、非常に興味深い。
イエス様ならば、お言葉一つで、その場ですぐにでも癒すことができたのではないかと思う。
しかし、そうはなさらなかった。
盲人も、すぐに癒して欲しいといった頼み方をしていない。
最初は「触れて頂きたい」といった、やや曖昧な表現でイエス様からの癒しを期待しつつも、はっきりと言葉に言い表せないようなもどかしさも表れている。
イエス様は盲人の手を取って村の外に連れ出し、目に唾をつけ、漁てを置いて「何か見えるか」と尋ねた時も、この盲人はまだぼんやりと見えるようなことを言っている。
物事が進んで行く時、じっくりと時間をかけ、一つ一つステップを踏んで進んでいくことが多い。
それなのに、人は何でもすぐに結果を欲しがる。
すぐに答えを欲しがり、自分の思い描いていた答えと違うと、すぐにあきらめる。
しかし、物事には手順もあり、一つずつステップを踏み、経験を重ねて行くことも大切なのだ。
焦ってすぐに結果や答えを欲しがることは、結局は自分自身の欲求を神様に押し付けているようなものであろう。
もちろん、なんでも祈ってい良いのだが、この盲人もそうであったように、自分の切実な願いを直接言葉に言い表せなくても、イエス様は私たちに何が必要かをご存じだし、イエス様を信じて、イエス様と共に歩んでいくことを導いておられるのであろう。
すぐに癒されれば、この人はたちまちイエス様のもとから離れて行ったかもしれない。
イエス様と共に歩んでくために、時間がかかることもあるのかもしれないし、どのような形であろうと、イエス様の祝福があることを覚えて、イエス様と共に歩んで行きたいものである。

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