はじめに

私たち西日本福音ルーテル教会は、その宣教開始から70年を超す歴史を有しています。
私たちの紹介を兼ねて、西日本福音ルーテル教会成立の歴史を紹介します。

20世紀の部(第1章~第8章)

第1章.前  史

第2章.発  端

第3章.誕生・生成 -1949年~1960年-

第4章.西日本教会の誕生と形成 -1961~1970年-

第5章.恵みの賜物の展開 -1971~1980年-

第6章.地方教会の確立 -1981年~1990年-

第7章.深みに漕ぎ出せ -1991年~-

第8章.原点から展開へ -新しい世紀にむかって-

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より
倉吉教会特別嘱託牧師(執筆時 西明石教会牧師) 勝原 忠明 著

21世紀の部(補遺)

補遺.激動の時代の波にもまれて -ここから再出発 2001年~-

文責:西日本福音ルーテル教会 Webメディア委員会書き下ろし

第1章.前  史

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

「イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。」

マルコ16章・別の追加分

福音の前進は、神様の働きであり、イエス・キリストがなさるのです。私たちは「イエス様のお手伝い」をするだけです。「極東」と呼ばれる東アジアのさらに海のむこうに「日本」があります。「東の果て」ではありますが、この国はまた「日の昇る国」でもあります。この国に、福音を聞き、主を受け入れ、信仰の道を歩む、という不思議を体験しているのが私たちです。 今年は、ノルウェーからの日本宣教が開始されて50年です(編者注:本文執筆の1999年時点)。「極北」から「極東」へと伝えられたキリストの福音を私たちは受け継いで、21世紀へと向かいます。自分の属する教会の背景を知っておくことは、安定と感謝をもたらします。基本的なことをまとめておきましょう。

[資 料]

  • 日本を「ジパング・黄金の国」としてヨーロッパに紹介したのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』(1299年)であった。
  • 1549年8月15日、イエズス会のフランシスコ・サビエルが鹿児島に上陸、日本とキリスト教の出会いの日である。
  • 1859年5月2日、アメリカ聖公会のリギンズが長崎に到着、プロテスタントの日本宣教が開始された。同年改革派、長老派の宣教師が来日した。
  • 1892年2月25日、米国南部一致ルーテル教会のシェーラーが来日。ルーテル教会の日本伝道が開始された。ルーテル教会は佐賀市を伝道地と定め、九州を中心に伝道を展開した。
  • 1900年、フィンランド・ルーテル福音教会は最初の宣教師を日本に派遣、長野県を中心に伝道した。

第2章.発  端

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤヘ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」

使徒16:9~10

神様の働きは「人」をとおして前進します。ノルウェーからの日本伝道も、第二次世界大戦中、満州での、矢田文一郎牧師と、ガブリエル・エイクリー宣教師の出会い、友情、そして、戦後の混乱の中での、矢田師のエイクリー師への日本伝道への要請の手紙、という関わりから生まれました。 エイクリー師は、矢田師の手紙を「マケドニヤの叫び」と信じて、米国を経て、日本に向かったのでした。

[資 料]

矢田文一郎の要請にこたえて、ノルウェー・ルーテル伝道会(NLM)のG・エイクリー夫妻がアメリカで伝道協力の約束を得て、1949年6月横浜に渡来。矢田に紹介された賀川豊彦の協力を得て、兵庫県西明石を宣教の出発点とした。同年中国での宣教師追放により、伝道会本部は日本伝道を正式に決定し、中国から引揚げた宣教師を日本に送った。49年9月、西明石でNLMの日本伝道開始式を挙行、山陰地方を主体に教会を形成。 60年4月の総会で西日本福音ルーテル教会憲法が承認され、63年3月神戸ルーテル聖書学院での総会で、青谷、西須磨、西明石、姫路、津山、鳥取、松江、大田の各教会、和田山伝道所が加入にて庄式発足。初代議長は鍋谷堯爾。65年6月宗教法人として認証され(自立と協力)を合言葉に伝道の強化を目指し、ルーテル諸教団との協力の下に海外伝道を推進。80年にインドネシアヘ宣教師を派遣したのをはじめ、未自給教会の助成、東京教会の形成、神学校(神戸ルーテル神学校、神戸ルーテル聖書学院)、日本ルーテルアワー、蒜山農村センター、文書事業(聖文舎)への経営参加などの諸活動を行っている。60年から機関誌『主の枝』(月刊)を発行。

西日本福音ルーテル教会(『日本キリスト教歴史大事典』教文館・1024頁)

ドイツ語地域以外では、ノルウェーの農民の子で商人、ベルゲンのハンス・エールセン・ハウゲ(1771~1842)が倦むことなく活動した最大の福音伝道者であった。無学ながらもハウゲは、故郷の山岳地帯を巡り歩いて福音を説いた。この点、ジョン・ウエスレーが馬でグレート・ブリテンを巡回したのに似る。ハウゲは、まったき回心による再生を叫ぶ強烈な説教をし、大部分が彼自身の手になる、粗末な文書を配った。ハウゲは1804年から1811年までの7年間、浮浪のかどで、また1741年発令の秘密集会禁止令違反の罪で、オスロで獄中生活を送り、引きつづき2年間の城塞禁固を宣告された。しかし彼はどんな苦難にも勇気を失うことなく、かえって自分の弟子たちに教会への忠誠を守るよう諭した。彼は次第に信仰による義認を説教の中心におくようになり、こうしてプロテスタント・ルター主義国教会自体を、根底から再活性化させたのである。以上で明らかなように、新敬虔主義全体にわたる特徴は、多数のキリスト教の拠点を生み出したこと、また一介の庶民がイエス・キリストのための運動に全生涯をささげるようにさせる力をもっていたことである。

ノルウェーの敬虔主義(M・シュミット『ドイツ敬虔主義』 教文館・269~270頁)

「ノルウェー・ルーテル・中国伝道会」は1891年設立され、同年8名の宣教師を中国に派遣した。(1949年「ノルウェー・ルーテル伝道会」NLMと改称)

「NLMの最初の愛は、中国であったので、中国と中国人はノルウェーのミッション・フレンドに忘れられてはいない。神があてて与えて下さった召しはそれほどに偉大であったからです。私たちは中国伝道会として生まれたのです。」

「満州で働いていた宣教師は、矢田牧師と知りあって、戦争中、矢田師のいろんな助けを受けた。戦後、日本に帰った矢田師は、NLMの宣教師と文通し、日本にも宣教するように懇願した。『マケドニヤ人の叫び』エイクリー師にとって避けられない召しの声となった。彼が、アメリカを経て1949年6月、日本に到着したときに、日本での新しい伝道はまだ承認されていなかったが、NLMの実行委員会はまもなく開始許可を与え、中国から引き揚げた宣教師を日本に送った。新しい働きを始めるために矢田師からのいろんな補佐を受け、西明石の賀川豊彦師の別荘で最初の伝道の働きを始めた。神戸で聖書学院を始めるために、2人の引退牧師ウィンテル師、スタイワルト師が協力を申し出られた。ウィンテル師はそのとき75才であった。ほば20年の間、聖書学院の働きのために計りがたい貢献をされた。最初の宣教師は農民への伝道を重視していた。1950年山陰の松江で働きを始めた。」

ノルウェー・ルーテル伝道会
(J・サメイエン『ノルウェー・ルーテル伝道会の歴史と現況』主の枝・161号)

第3章.誕生・生成

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

-1949年~1960年-

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。

イザヤ53:2

第二次世界大戦の敗戦は、日本の歴史の中で初めて、外国の軍隊に国土が占領されるという結果をもたらしました。原爆によって廃虚となった広島、長崎、空襲によって焼け野が原となった東京、大阪、神戸、戦場となった沖縄。満州、台湾などからの引き揚げ者。貧しさの極みの中で生きるために懸命な人々。戦後、半世紀以上たった現在では実感できない貧しさと困難がそこにはありました。 米国から派遣された多くの宣教師と物資援助によって日本の教会は息を吹き返し、戦後の「キリスト教ブーム」が起ります。それは「あと十年もすれば日本はキリスト教国になる」という期待を宣教師たちに抱かせるほどのものでした。この時代に、エイクリー師は来日し、しかも、欧米でよく知られた日本のキリスト者賀川豊彦師とのつながりの中で西明石で宣教の第一歩を踏み出したのでした。 1950年代、NLMは、次々に土地を取得し、開拓伝道地を誕生させます。

主な出来事

50年

姫路、荒島、松江、青谷(神戸ルーテル聖書学院)、西須磨の働きが開始されます。
姫路では保育園が開園されます。

51年

鳥取、大田、西明石幼稚園

52年

粟生、

53年

津山、和田山、

55年

勝間田、大田、津山幼稚園

56年

ルーテルアワーセンター(現「心に光を」メディアセンター)、聖書学院新校舎完成、

57年

神戸ルーテル神学校開校、

58年

「心に光を」、ラジオ山陰による放送開始

59年

NLM年会において、教会組織発足のために「六人委員会」が任命され準備にあたります。

60年

「主の枝」創刊。総会において「西日本福音ルーテル教会憲法」が承認され、教会成立への歩みが始まります。

50年代は、NLMの宣教方針によって伝道の拠点が確保され、西日本教会の核となる教職、信徒が救われ、養育された時代でした。現在の西日本教会の基本的な機能である地方教会、各事業(聖書学院、神学校、放送伝道、幼椎園)、そして、教会憲法が整備されていきました。 この10年間の働きの主体が宣教師であったこと、その背後に、忠実なミッションフレンドと呼ばれる信徒の祈りとささげものがあったことを忘れてはなりません。また、この生成期に献身し、貧しさの中で訓練を受け続けた第1世代の教職者の方々を覚えます。

[資 料]

この期間の公的記録は、西日本教会では管理されていない。地方教会の週報その他の記録、およびNLMの資料を可能なかぎり収集し、整理する必要がある。

第4章.西日本教会の誕生と形成

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

-1961~1970年-

あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

イザヤ33:6

60年代は、NLMのもとにあった教会が「西日本福音ルーテル教会」を組絨し、活動の主体がミッション(伝道会・宣教師)から教会へ移行していきます。この変化は、容易なものではなく、このプロセスを忍耐と祈りをもって経験したことが、その後の西日本教会とNLMの協力関係を強固なものにすることとなりました。

異文化間協力、組織形成、財務、など多面的な課題にリーダーの方々が取り組まれたことが資料をとおして伝わってきます。この時代に、西日本教会の基本的枠組みと路線が決まった、と言ってよいでしょう。また、西日本教会の組織化の時点で、日本福音ルーテル教会との「合同」が視野に入れられており、この課題との真撃な取り組みもうかがわれます。

主な出来事

61年

第1回牧師接手札(粂井実、中津義典、田中良浩)。
津山、鳥取、青谷、大田などで長老が誕生。米子伝道開始。

62年

西日本福音ルーテル教会成立
(神戸ルーテル聖書学院において開かれた総会において、西日本福音ルーテル教会憲法及びNLMとの協定が批准された。初代議長 鍋谷堯爾)

64年

社伝道開始。

65年

宗教法人西日本福音ルーテル教会が設立承認される(6月7日)蒜山農村センター落成

68年

「心に光を」放送開始。2代議長・谷口泰造

[資 料]

「自給自立の問題」

(西日本教会設立)当時、9教会の会員数は800人、総献金額は、340万円であった。これに伝道会からの援助金370万円を加えた710万円で教団全体の活動は運営されていた。そのうち210万円が各地方教会の活動費に使われ、本部費は35万円、18名の教職給合計が420万円であった。当時、牧師給は基本給が1万3000円、年俸加俸300円、家族手当は約3000円であった。又他のルーテル教団では、日本福音ルーテルの総献金額が約3000万円、海外からの補助金が約3000万円であった。近畿福音ルーテル教会は西日本ルーテルとはぼ同額である。海外からの補助金をどのようにして減らし、どのようにして自給を達成するかということは、ルーテル教会にとどまらず、すべての教派教団の直面していた問題で、今日でも、戦後、宣教団体によって創立せられた小教会は苦闘しているが、日本福音ルーテル教会は数年前に自給を達成した。

「合同問題」

合同問題については、教団創立以前から、ルーテル系宣教団体と日本福音ルーテル教会の間で数年にわたって審議がすすめられていたが、ミゾリー・ルーテル教団は早くから独自の路線を歩み、結局、日本福音ルーテル教会と東海福音ルーテル教会が合併し、西日本福音ルーテル教会と近畿福音ルーテル教会は独自の教団形成をすることとなった。1963年第2回総会では、「態度保留」という決議によってこの問題を棚上げしている。しかし、聖文舎、ルーテル・アワー、マルチ・メディア・プロジェクトなど、じっさいの協力関係の中で、同じルーテル信条の上に立った日本福音ルーテル教会ミゾリー・ルーテル、近畿福音ルーテル、西日本福音ルーテルの交わりと協力は今日まで継続してきている。又、第2回総会では、宗教法人規則の承認がなされ、これにより法人登記を完了、ノルウェー・ルーテル伝道会とは別個の独立した宣教団体として歩むこととなった。

「西日本福音ルーテル教会の展望」鍋谷堯爾(「主の枝」161号・1979年より)

本教会は、聖書、すなわち旧新約聖書が聖霊によって啓示された神の言であると信ずる。したがって本教会は、聖書がキリスト者の信仰と生活の唯一完全な基準であり、すべての教義と教えがこの聖書にもとづくものと信じる。本教会は、世界教会信条及び一般にルーテル教会により認められている信条を受け入れる。とくに、万人祭司職、恵みの賜物を強調し、信徒主義と平易な礼拝形式をモットーとしている。また、教会政治として長老制を採用している。

『キリスト教年鑑』「西日本福音ルーテル教会・教義」

第5章.恵みの賜物の展開

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

-1971~1980年-

あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。

イザヤ54:2

70年代は、地方教会の自主性が確立、成長し、NLMは伝道地を開拓し伝道の拡大が見られました。海外からは、フィンランド・ルーテル海外伝道会(FLOM)が宣教師を派遣し、NLMの組織の中で開拓伝道に携わりました。また、海外伝道へと視野が広げられ平野嘉春師、千金町子師が宣教師としてインドネシアに派遣されました。 さらに、78年には宿野太郎師が専任事務局長になり、本部事務局の機能が強化されました。(栗飯原健三氏はNLMの伝道開始当初から伝道会と日本のパイプ役となり、西日本教会設立後は無給の事務局長として十三年にわたって奉仕されました。)

主な出来事

71年

東岡山伝道所独立。北大阪集会。

72年

緑ヶ丘、集会開始。

73年

赤穂、教会用地購入。

74年

3代議長、鍋谷堯爾 NLMから西日本教会への財産移管調印式。
出雲教会開始。玉島伝道開始。

75年

姫路東教会設立。年間受洗者100名をこえる。

76年

自給八か年計画承認。上井(倉吉)伝道開始。

77年

東京伝道所開始。

78年

事務局長、宿野太郎任命。

79年

東福山、会堂献堂。

80年

4代議長、有木義岳 宣教師派遣(平野嘉春、千金町子、インドネシアヘ)

[資 料]

1968年初代総会議長鍋谷先生のあとを受けて、私は、総会議長という重責ある職務に召された。この時期は、日本の社会全体が「激変」の渦中にまきこまれていたときであった。そして、その影響は種々の形で日本のキリスト教会に及んでいた。私達の教会もその例外ではなかった。私達は、その時点で「教会に委ねられた奉仕の務め」とは何かを問いかけられたのである。この課題と取り組み続けた6年間であった。最初の2年間には、アウトリーチ(伝道活動)を中心に必要な基礎固めが行われた。つまり、成長するキリスト者の「養育」を目指す教会という点から、教会のミニストリー(神から委託されている務め)と働きの形態、機能の関係が検討され、教会の進むべき方向が研究されたのである。最初の2年間は、さきの二つの期間の結論として生まれた「伝道する教会となるために」という目標を目指して、具体的にステップを踏む期間となった。このステップは、1973年春の教職者人事異動の実施であった。それは、まことに神の憐れみ深い導きの賜物であり、全教会の祈りと努力の結実である。この移動を軸にして西日本教会の伝道戦線は、地域的にも階層的にも、新しいフロンティアを見いだしてきた。また、地方教会レベルでも、伝道力の強化と他給教会へのビジョンとして捉えられてきた。・・これまでの西日本教会の歴史を、ノルウェー・ルーテル伝道会との関係という点から見るならば、今年は新しい段階に入る年だと言えよう。鍋谷議長の期間は、伝道会からの分離期であった。伝道会の組織下にあった各地の会衆が、伝道会に対する新しい組織体としての西日本教会となっていく移行の期間であった。この意味で、両団体にとって、実に苦労の多いときであった。続く第2期は、一言で言えば、自立への体制を固めるための準備期であると言えよう。従って、西日本教会のアイデンティティー(自己同一視)が常に確かめられてきた訳である。つまり、西日本教会とは何か、神から委託されている教会の奉仕の務めは何か、という事である。そこでこれからの段階は、「神の教会」としての西日本教会が、自らの信仰によって神からの委託に対して貴任を負い、その委ねられた「奉仕の務め」を果たしてゆくときである。神から与えられている伝道会との協力関係を尊重しながら、主体的に教会を形成し宣教のわざをなしてゆく訓練の期間に入る訳である。

『西日本福音ルーテル教会第十三回総会緒報告』総会挨拶・谷口泰造、1974年

第6章.地方教会の確立

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

-1981年~1990年-

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

ヨハネ4:35

80年代は、各地方教会が「自分の足でしっかり立つ」時期でした。西日本教会議長も地方教会の牧師が選出されるようになり、各地方教会が独自性を出しながら、教会形成と伝道に取り組むことになります。その一方、開拓伝道が出来にくくなる状況の中で、「2000年50教会をめざして」が西日本教会の具体的目標として設定されました。 徳島地方で伝道していたフィンランド・ルーテル宣教会(FLM)との提携によって4つの教会が加えられ、西日本教会に豊かさが増しました。

主な出来事

81年

北大阪教会太子伝道所献堂

82年

『ルーテル教会信条』発行

83年

東京教会休止

84年

「心に光を」五千回記念
「2000年50教会をめざして」を承認

85年

小豆島教会献堂

86年

5代議長、広野善彰 北鈴蘭台教会、西神伝道所設立

87年

平野宣教師帰国

89年

フィンランド・ルーテル宣教会(FLM)宣教協力提携。吉野川、東徳島、阿南、大津教会が西日本教会に加入。
西明石、高丘チャペル開始

90年

西神教会献堂、仁摩教会献堂

[資 料]

西日本教会も設立30周年をむかえる教会が、つぎつぎにではじめている。これは、個々の教会がかなりの力と経験をもち、自力で歩みはじめているあらわれであろう。こうして、自立した教会がではじめて、かえって、西日本教会とは何かが問われている。お互いがまだ幼く、他の教会との協力や交わりで励まされていた関係が今では薄くなり個々の教会が、他との関係を希薄にしてもやっていけるので、他教会への関心が疎となる傾向にあるように見うけられる。・・各個教会間の活動協力、全体教会を巻き込んだ活動、あるいは年齢層や職域などの全般的プログラムなども期待される。各教会が自閉的にならず、自己目的にならず連帯をよりよく保つことが求められる。

『主の枝』163号、1980年、「議長就任ごあいさつ」有木義岳

こうした基本に徹するということをふまえながら、もう少し具体的に考えますと、一つは、現在西日本教会に与えられている働きを、大事に育てていくことを挙げたいと思います。教会と伝道地が30ヶ所与えられています。それを大事に育てて行く。そしてそれに開拓伝道で1つ2つと増やして行く。神学校、聖書学院もあります。蒜山のキャンプ場があります。放送事業をしています。文書伝道を聖文舎の共同経営者としてしています。幼稚園、保育園があります。学生伝道のためには片岡先生を送っています。日系人伝道のためには、正木先生が一人立って行って下さいました。海外伝道、千金先生の後継者を考えたいと思います。・・・ありがたいことに、40年の歴史の中で、ノルウェー伝道会が、大きな広がりを与えてくれました。色々したいことはありますが、まず、与えられたものを大事に育てていくことではないでしょうか。

『主の枝』185号、1990年、「西日本教会の伝道方策と実践」広野善彰

第7章.深みに漕ぎ出せ

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

-1991年~2000年-

深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。

ルカ5:4

1980年代の終わりから90年代にかけて、世界の歴史は激変していきます。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連をはじめとする共産圏諸国が相次いで崩壊します。日本はバブル景気によってかつてない活気を呈します。一方、ヨーロッパは不況の波を受け、NLMは宣教方策の見直しを迫られます。しかし、バブルの崩壊とともに、日本の経済状況は、急激に悪化します。追い打ちをかけるように、阪神淡路大貫災、オウム真理教によるサリン事件が起こります。 戦後を支えてきた、政治、行政、経済システムが制度として、世界の動きに適応できない状況になり、巨大銀行が国の管理下におかれるまでになりました。阪神大震災では、被災地の教会への支援の手が、各教会から差し伸べられ、大きな支えになりました。オウム事件以降、宗教に対する警戒心が強くなり、教会学校生徒数、受洗者数の減少にも、その影響がみられます。 「2000年50教会をめざして」の運動は、伝道所を含めて40教会となりました。歩みは遅くども、1つまた1つと開拓伝道が試みられていることを覚えます。また、開拓伝道のために伝道会が果たしてきた役割の大きさも忘れてはなりません。 世紀末から、新しいミレニアム(千年期)にむかう中で、私たちは「宣教50年」を迎えます。

主な出来事

91年

仁摩教会独立 西宮伝道開始

93年

6代議長、勝原忠明 新田教会加入

93年

新会堂の献堂各地で行われる。

94年

地区活動の強化

95年

阪神淡路大震災

96年

7代議長、池上安 二見伝道開始

97年

淡路伝道開始 蒜山バイブルキャンプに運営参加決定

98年

モンゴルヘの伝道協力開始

99年

日本宣教50周年感謝礼拝式

[資 料]

この世紀末に社会が抱える課題は経済不況、高齢化、そして青少年の犯罪の増加など多様で深刻です。今を生きる私たちのライフスタイルや価値観の変革が迫られています。閉塞感や倦怠感が世界を覆い、闇が人々の前に広がるとき、神の預言者は歴史の中に神のさばきと、人の不信や背反を思いました。同時に、神のみわざの成る「胎動」を聴いたのです。今こそ私たちは、世界と歴史のうちに神の救いのみわざの起こることを平静に、また執拗に、希望をもって信じるものでありますように。来る年も、西日本福音ルーテル教会が世界に対する神の救済の決意と徹底性を示すイエス・キリストの福音を、私たちの教会から地域へそして海外へと、さらに熱心に伝えていきたいと思います。

『1999年度報告書』「挨拶」池上安

第8章.原点から展開へ

出典:「主の枝」207号/宣教50周年記念号(1999.9刊)より

-新しい世紀にむかって-

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

マルコ1:15

五十年にわたる宣教の歩みは、主を信じる人々の忠実な奉仕によって支えられ進展してきました。西日本福音ルーテル教会は、多くの土地・建物・特別事業をもち、運営するに至りました。戦争の痛手の中の貧しさから出発し、日本の経済成長、科学技術の発展とともに、教会はその形を整えてきました。私たちは、信仰の先輩たちが労苦して築いてきたさまざまなよきものの上に今、信仰の交わりとしての教会生活をしています。

しかし、私たちが受け継ぐ、もっとも大切なものは、目に見える財産ではなく、西日本教会が出発をした原点です。私たちの信仰は「西日本福音ルーテル教会(地方教会)憲法」の「教理的立証」において「聖書のみ・信仰のみ・恵みのみ」として明らかに宣言されています。 この憲法は、1960年「憲法委員」が選出され準備されました。憲法作成にあたっての基本的精神は次のとおりです。

・・・第1は、教職者の方、一般信徒の方を通じて、伝道会1伝道師1信徒という考えがありまして、教会は「二、三人私の名によって集まる所に私もいる」とおっしゃった一般信徒を基礎にした考え方が殆ど理解されていないという事です。それは、私達の教会形成の歴史からみると当然の事であり、それでよかったわけですが、これから形成してゆく教会は前のような考えはとり去ってゆかねばならないという事です。伝道会の代りに教区がどんとあぐらをかいて、地方教会を支配し、地方教会では牧師が先生にたてまつられているというのでなく、万人祭司制により、すべての信徒が恵みの賜物に応じて交わりと証しの生活に活躍してゆく。その中で管理の賜物、牧会の賜物をもった者が、長老や牧師に選ばれ、訓練され、教会の僕として奉仕してゆくのです。又地方教会は、相互の交わりと、委任された行政及び、個々の教会ではできない学校の経営とか特殊伝道を協力して行うために教区を形成してゆき、常に正しく神の言に立った伝道教会として発展してゆくのです。

いちばん上に教区があって、それから牧師、それから地方教区、それから信徒という考えから、主にある聖徒の交わりを第一に考え、各自が恵みの賜物に応じて働き、その賜物の中に、長老も牧師も伝道者も含まれているという考えを保持する必要があると思います。そして地方憲法、教区憲法はこの精神によって貫かれているのです。

[『主の枝』12号、1961年「教区形成について」鍋谷堯爾]

「常に正しく神の言に立った伝道教会として発展してゆく」教会として、21世紀に向かいたいものです。

補遺.激動の時代の波にもまれて

-ここから再出発 2001年~-

イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

マタイ9:15-17

子供の頃に思い描いていた21世紀…アトムや空飛ぶ自動車など、姿かたちは違っても、たゆまぬ努力や発展の中、様々な新しい事柄が登場していきました。インターネットの普及や、何でもスマホで完結できる世界など、便利にはなりましたが、人と人とが交流を深めていくには難しい問題も出てくるようになりました。しかし、私たちは時代の変化に頭を悩まされながらも、変わらぬ福音を宣べ伝えていきたいと願っています。

主な出来事

2001年12月

西日本福音ルーテル教会の公式ホームページ開設。同時に福音放送ルーテルアワー「心に光を」のインターネット配信を開始。

2003年8月

米国ルーテル記念財団の協力を得て、マルティン・ルターの小教理問答書を復刻。

2011年

東日本大震災発生(3月11日)。アメリカのミズーリシノッド・ルーテル教会からの支援を得て、ボランティア救援隊を東北地方へ派遣。(2011年~13年)

2012年6月

池上真祈師を香港マカオ・ルーテル教会へ宣教師として派遣。

2016年

当教会オリジナル翻訳の七五調の小教理問答書を作成、無償配布。(当HPにても公開

2019年

青少年伝道に力を注ぐため、専任の青少年主事をおく。高平真生師、M&K.ベルゲセン師らを青少年主事として任命。青少年伝道COMPASSの活動をスタート。続くコロナ禍もあり、オンラインでの様々な活動も普及していく。

2019年

一部の教会で牧会上の必要から、礼拝の動画配信の実験的取り組みの開始、

2020年

新型コロナウイルスによる世界的なパンデミック発生(1月)。礼拝等の集会の制限を余儀なくされ、雇用調整助成金の問題も(9月)。多くの混乱と苦難の中にありながらも、少しでも宣教の業を進めていきたいとの願いにより、礼拝の動画配信を開始する教会が複数起こされる。

2023年

新しい時代に対応していくため、新たなホームページを設置。ここから再出発。