鍋谷 堯爾 著 主の枝 特別号(1977.12.15刊)

はじめに

1977年のキリスト教年鑑で、日本のクリスチャンの数を見ると、総計118万人で全人口の1パーセントである。しかし、これを詳細に見るならば、カトリック教徒が39万の他、イエスの御霊教団、ものみの塔、モルモン教団などが含まれており、プロテスタントは、約60万人と考えられる。その中で最大の教団は、日本基督教団19万人、つぎが聖公会の54,000人、バブテスト連盟24,000人、そして福音ルーテルが18,000人である。その他大小教団あわせて、約130の教派教団があり、西日本福音ルーテル教会は、ルーテル諸派の中に、近畿福音ルーテル教会や、日本ルーテル教団、日本ルーテル同胞教団と共に記されている。

これを歴史的に見ると、戦前は福音ルーテル教会のみで、他は、戦争後の1948年から数年間、相前後して、おもに中国で宣教していた宣教団体が、中共政権の樹立で伝道できなくなり、日本にやって来たのである。戦前の日本のキリスト教会は、植村正久によって代表せられる横浜バンド、海老名弾正によって代表せられる熊本(同志社)バンド、内村鑑三によって代表せられる札幌バンドに大別され、ルーテル教会は、キリスト教界全体の中で注目せられるところが少なかった。それは、「人間ウインテル」(鍋谷著、聖文舎、1974年)に記してあるように、ルーテル教会の伝道が30年ほど遅れたこと、九州に伝道の拠点をおいたことと共に、ミッション団体が小さく、従って資金や人材に恵まれず、神学的にも佐藤繁彦を除いては、貢献する所が少なかったためである。

ところが戦後は、前述のように、5ルーテル教団の背景となる強力なルーテル宣教団体が相次いで来日した。そして、西日本福音ルーテル教会は、ノルウェーの敬虔主義リバイバル運動の遺産をも併せて受け継ぎながら、改革派、バブテスト、ホーリネスなどの福音主義諸団体とも緊密な協力関係をもちつつ自己の教会形成だけでなく、日本のキリスト教界全体への貢献という視点をもって今日に至っている。そこで、わたしたちは、伝道や教会活動における他教派、他団体の協力関係を考える時、もう一度わたしたちの西日本福音ルーテル教会は何かという素朴な質問に返らなければならないが、それは、ルーテル教会が信徒教会であると言う原則から出発しなければならないことを意味している。しかし、教会憲法に記されている信仰告白が、自主的に一般信徒の方たちによって読まれたり、学ばれたりすることは少なく、これについての解説書の必要が感じられて久しい。

幸い、ゲール・ホアス先生が、多忙な中でこの労を引き受けて下さり、柏木道子夫人の翻訳によって出版の形をとれるようになったことを感謝している。また、ラーエン先生のお骨折りと、ノルウェー・ルーテル伝道会の出版基金に感謝したい。

先きに、フランスのルモンド紙の新聞記者ボアイエ記者は、わが国の社会構造、心理構造の中に、日本人の「前に向って逃げる」民族性を読みとっている。しかし、わたしたちはまず、自分たちの立っているキリスト教の遺産をじっくりとかみしめ、消化した上で、「神の国の前進」のために働きたい。

なお、次の書もできれば読まれることをおすすめする。

ウイスロフ著「ルターとカルヴァン」「現代神学小史」「キリスト教教理入門」 鍋谷堯爾訳

今日のキリスト教会は非常に多くの分派に分かれている。それらの中の全部ではないとしても多くの派が、自分達こそは聖書に基づいているのだというだろう。それでは一体何故、そのような分派が起こるのだろうか。私達は、この複雑な問いに答え得るとは思っていないが、しかし、幾つかの重要な事柄をのみ取り上げて見よう。キリストの福音のある部分に特別の興味と強調点を置くと、他の点を無視したり、最終的には誤解したり、聖書のある個所を曲解したり、異論に導びいたりすることがある。罪の結果が教会に分裂を引き起こすとも考えられる。信条書は最初、教会に入り込んできた異端に対するために、生じたのであった。

信条書は偽りの教義に対して、聖書の教えを守りぬくために作られた。幾つかの信条書は、クリスチャンに聖書の基本的な真理を簡潔に、しかも正確な文章で教えることを目的として書かれ、またあるものは、偽りの教義が教会を脅かすものとして登場してきたので書かれたのである。

ルーテル教会の信条書は聖書に対する全き忠誠を述べており、初代教会と同じ内容を告白している。だからその中に、16世紀の信仰告白の特徴も見ることができる。それらはすべて聖書に従っている。ここには唯一の基準があって、他のすべての基準はそこから派生するものでなければならない。だからどんな教会の権威もこの「聖書のみ」という原則を犯してはならないのである。

聖書の中心はキリストである。そして神のあわれみはキリストの故に罪人に注がれている。いかなる人も神からのこの賜物に何ものもつけ加えることはできない。福音は神のめぐみ以外の何ものでもない。この原則は「恩寵のみ」とも呼ばれている。

クリスチャンはこのめぐみを行ないによって受けるのでなく、福音のみことばに信頼することによって、すなわち、キリストを信じる信仰によって受け取るのである。これは「信仰のみ」と呼ばれている。

この三つの“Solas”「のみ」の原則がルター派の特徴である。このことは、教会の権威、また、救われるために行ないが必要であるというローマ・カトリックの教えとは非常に対照的である。しかしながら、ルター派は聖書から離れた「内なる光」による啓示と導きを求める人達にも反対し、救いが神の選ばれたわずかの人達のためであって、すべての人に意図されたものではないという考えにも反対している。

ルター派と改革派の伝統的な教えは、どこまでも、神の救いに人間の側での協力は何の役にも立たないと主張する。またキリスト教の真理を合理化する立場を否定する。

今日、教会の立場は複雑であり、どんな特殊な教えに対しても明白な基準が必要なのである。ルーテル教会の信条書は西日本福音ルーテル教会の信仰の基本を明白に示している。

第一章 西日本福音ルーテル教会の信仰告白

(西日本福音ルーテル教会の規約第二章からの全文引用)

簡単に次の4節を見てみよう。

第二条 本教会は、聖書、すなわち、旧新約聖書が聖霊によって啓示された神の言葉と信じる。
従って、本教会は、聖書がキリスト者の信仰と生活の唯一完全な基準であり、すべての教理と教えがこの聖書に基づくものであると確信する。教理的立証は私たちの信仰の解明である。

2 教会における信仰と行ないについてのすべての問いに解答を与える基準となるものは聖書である。その内容は聖書に対する信仰告白である。聖書の真の著者は人ではなく、人に語りかけられた聖霊である。従って、教会が教えることは聖書と一致していなければならない。聖書の他に何も拘束力のある基準はない。そして他の基準は聖書の解説にすぎないのである。

第三条 本教会は、使徒信条、ニケヤ信条、アタナシウス信条が新旧約聖書の教えと一致するものである事を確認する。

3 聖書の真理は初期のころより、さまざまの形で誤用され、誤解されて来ており、特別の解説書が必要な時が今までに何回もあった。三つの原則(三つの”のみ”の原則)がその説明となっている。その原則は聖書に基づいており、西日本福音ルーテル教会はそれを正しいと認めている。したがって、西日本福音ルーテル教会はこれらの原則を信条書としてとり入れている。

第四条 本教会は、改定されないアウグスブルク信仰告白とルーテルの小教理問答書が神の言に基づき、福音ルーテル教会の信仰および教理を正しく表明するものであることを確認する。

4 宗教改革の時もまた、聖書の真理を明らかにすることの必要な時期であった。ローマ・カトリック教会からの根本的な離別や、多くの熱狂的な運動と結びついた偽りの教えに対して正しい聖書の教えが再び明らかにされねばならなかったのである。アウグスブルグ信条とルターの小教理問答はとくに大切な信仰告白である。改訂されていないアウグスブルグ信条は一番最初のものであり、後の版とは多少の違いがある。この信条書は、熱狂主義者にも、ローマ・カトリック教会に対しても聖書の真理を示し、対立する見解を批判し、論争の中心となっている多くの点を明らかにしている。ルターの小教理問答は、弁証的な文書ではないが、私達が聖書の中心的真理を把握することができるようにと、すべてのクリスチャンのために積極的に教えを示したものである。それは簡潔で判りやすいことばで記されている。宗教改革時に出た多くの文書の中でこれらの二つが主なる信仰告白として選びだされている。

第五条 これらのルーテル教会の信条と一致するものとして、一五八〇年の和協書に含まれたアウグスブルク信仰告白の弁証、ルーテルの大教理問答書、シュマルカルド信条、和協信条も受け入れる。

5 その他に、The Book Of Concord(和協信条書)の中に含まれているいくつかの他の信条書も聖書の真理の表現として受け入れられている。すべての信条は聖書と一致しており、聖書の権威に従っていることを知ることができる。それらの信条は聖書の証しのために用いるべきであって、聖書に述べられていない事柄や、明確には示されていない事柄についての最終的な判断を下すために用いるべきではないのである。信仰告白書は私達の第一の基準なのではなく、私達の信仰の表現であり、聖書という第一の基準に基づいているものなのである。それらは私達が聖書をいかに理解すべきかの指導書である。さまざまの教派と聖書の真理を曇らす偽りの教えの中で闘っている教会から生まれ出たものが信仰告白であって私達の信仰の最も大切な点を示すと同時に、将来起こるかもしれない論争の導きとして私達に示されているのである。

第二章 信仰告白書の歴史

1.使徒信条

使徒信条の基盤はキリストが マタイによる福音書28:19-20 に示されている大命令を下された時、キリストご自身によってもたらされたといえる。「それゆえ、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として父と子と聖霊との名によって、彼らにバブテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまでいつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:19-20)。使徒信条は洗礼に関する三位一体説の単なる説明であり、拡大である。

使徒信条という名前は、今日私達が採用している基準が使徒達の手によって書かれたものだということを意味しているのではない。それは紀元5世紀にもなってからできたのである。しかしながら、この信条には幾つかの前例がある。特に2世紀のローマ信条とはよく似ている。さらに2世紀と3世紀の間には、 ”Rule of Truth”(真理の法則) とか ”Rule of Faith”(信仰の法則) ”Law of Truth”(真理の律法) とか呼ばれた、いくつかの参考となるものがある。これらのものから私達が知り得ることは初代教会のころより信仰告白なるものがあったということである。そして特にそれは洗礼に関するものであったことである。洗礼を受けた人は自分の信仰告白をするよう要求され、このことが一つのパターンを形作ったようである。

このことは教会がたえず変化する状態にあるので、その結果使徒信条ができたということを意味しているのではない。その基盤は新約聖書にある。大命令の他に主としてイエス・キリストが神の一人子であることに関する多くの信仰告白を私達は聖書の中に見つけることができる(ヨハネ1:49、6:69、マタイ16:16、20:28、使徒8:37、へブル4:14、Ⅰヨハネ4:15)。そして主なる神については(Ⅰコリント8:6、12:13、ローマ10:9、ピリピ2:11)に、さらに、人としてのキリストについての広い意味の信条については(ローマ1:3-7、Ⅱテモテ2:8、Ⅰテモテ3:16、Ⅰコリント15:3-5、ピリピ2:6-11)に見ることができる。これらの信仰告白は洗礼準備のための教えの基本的なものであった。洗礼を受けた人はイエス・キリストの真のご性質ーダビデの子孫であり、処女マリヤより生まれ、十字架につけられ、よみがえり、父なる神の右の座におられる御方ーを知り告白するよう望まれた。この告白するという行為は主イエスの御ことばに立返っているのかも知れない。「だから、人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」(マタイ10:32-33)。

ここに示されている強調点はローマ10:9、Ⅰテモテ6:12、ヘブル4:14、10:23にも見ることができる。そして三位一体説をⅠコリント13:13の祝祷の中に見ることができる。

こうして、使徒信条の本質は新約聖書に確実に基づいていることを知ることができる。しかも、使徒信条そのものが、イエスの生涯を要約して語り、聖書の教えを述べているのである。だからこそ、新約聖書に見られる使徒の証と一致しているのである。形式的には洗礼の時に必要な告白であり、また後のクリスチャン生活にも必要なのである。内容的には、三位一体の神、十字架につけられ、よみがえり、今も生きておられる救い主であり、罪を許し、永遠の命の希望を公言するものである。

この信仰告白は今日のすべての主なる教会で用いられているが、ギリシャ正教会は例外である。他の主なる教会では洗礼準備の教えであり、教義上の信条と見なしている。

2.ニケア信条

2世紀から3世紀にかけて三位一体説に関する教義的な論争が起った。神についての三つの人格の関係、特に”父-子”の関係はいろいろの形式で説明された。”子”は単なる人間であり、聖霊のみが使徒を導びく力を持っているのだという人もあった。合理主義的な傾向は三位一体の問題を論理的に解こうとしている。ある人達は、三つの人格は神と神の救いの業の啓示の三つの段階を示すものだという。また他の人達は”子”はヨハネから洗礼を受けた時、聖なる状態に高められ、聖霊は十字架上での最後の瞬間に下されたと主張した。四世紀頃の主なる異端であったアリウス主義の考えは、キリストは他の被造物と同じように創造され、彼の”聖さ”は彼の善なる犠牲的な生涯に与えられた栄誉のしるしであり、彼は永遠の昔から存したのではなく、また永遠に生きるために死からよみがえったのでもないと主張した。

その当時、政治と教会は結びついており、コンスタンチヌス皇帝は、彼の領土を統一するために紀元325年ニケアで会議をひらいた。これは最初の超教派的な会議といえるだろう。この会議には318人の司祭、副司祭が地中海各地と中近東の国々から集まった。アレクサンドリアのアレクサンデル司教とアタナシウス長老によって指導され、会議は強い反アリウス信仰告白の立場をとり、キリストは父と同じ性質を持ち、父から生まれ、永遠から存したと主張したのである。

しかし、アリウス派といくつかの他の派は時には政治的支持を得て依然として栄えていた。381年、テオドシウス皇帝はコンスタンチノープルに第二回の超教派会議を開いた。ここで、325年に開かれたニケア宗教会議は支持され、発展を見た。今日、ニケア信条と呼ばれているものは、第二回の宗教会議の結果生まれたものである。そして、これはニケア・コンスタンチノープル信条といわれている。そして451年のカルケドンの会議で支持され、589年超教派の会議で最後の変更がなされた。それは聖霊は子なる神からも来るとされたことである(381年の信条では父なる神からのみであった)。この追加文はローマ教会に受け入れられ、後には改革派の教会によっても取り入れられたのだが、ギリシャ正教だけには受け入れられなかった。そしてこれは論争点を生じさせ、分派を引き起こす結果ともなった。

ニケア信条の主なる点は次に示すものである。

  1. キリスト唯一神論。唯一つの神、全知全能にして見える物、見えないもの、天地のすべての物の創造主なる神。
  2. 真の主はイエス・キリストである(コリント8:6)。
  3. 子なる神もまた真の神であり、神から生まれ世の初めから神の中の神、光のうちの光であり、まさに造られたものでなく生まれたものであって、父なる神と同じ本質なのである。
  4. この子なる神は天から下り、処女マリヤにより聖霊のカによって人となられたのである。
  5. 使徒信条と同じように、キリストの生涯、苦しみ、死、復活、神の栄光の座にもどられたことなどが強調されている。
  6. 聖霊もまた神であり、礼拝され栄光を受けるべきものである。
  7. 教会は唯一つであり、聖なる全教徒のためまた、使徒のための教会は一つであり、罪のゆるしのための洗礼も唯一つである。

ニケア信条は神の子としてのイエス・キリストについて、異端派の見解に反論することを目的として、はっきりとした教義を表現した信条である。この信条は今日、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、英国国教会、幾つかのルーテル教会でも用いられている。これらの教会では、この信条は教義的に高い価値を持っているのであるが、改革派の教会では受け入れられてはいるけれども、その価値は高く認められていないこの信条は従って大部分の教会で受け入れられている。ただギリシャ正教とはすでに述べた一つの点で相違している。

3.アタナシウス信条

この信条がいつ頃できたのかは明白ではない。その名の由来しているアタナシウス長老の手によって書かれたものとは到底考えられない(彼は373年に死んでいるからである)。むしろ、教会の長い歴史の中で生まれたものであろう。私達が今日持っている最も古い文書は700年ごろのものである。だからこの信条は多分、6世紀から7世紀にかけて作られたと考えられる。その40項目に近い内容から、私達は初期の教会が持っていた三位一体説(3-25条)と、人としてのキリスト(28-29条)に関する神学を知ることができる。
この信条の主なる点を次に示す。

  1. 三位一体の三者は同じ地位にあり、一つの神に帰する。それらは三者とも永遠であり、全能であり、無限である。三者は一体である。
  2. キリストは真の神であり、真に人でもある。人としてのキリストは父なる神の下に位置するが、神としてのキリストは父なる神と同等である。キリストは分離しているのでなく、神と人がまさに一体となっているのである。

アタナシウス信条は確実にして真の信仰告白の必要を強調している。これは真に一つの教会の中に在ることのためにも、また永遠のいのちを受けるためにも必要である。ルターはこの信条を使徒信条を説明するものであり、擁護するものであると考え、高く評価した。
アタナシウス信条は第一に教義を示す信条としてローマ・カトリック教会、英国国教会、ルーテル教会の中で今日の位置を保っている。ギリシャ正教会では認められてはいない。改革派では形式的には受け入れられているが、高く評価はされていない。

4.アウグスブルグ信仰告白

1517年、マルチン・ルターは九五の論文を書き、カトリック教会に見られるいくつかの誤りを指摘した。特に彼は罪のゆるしを与えるという「免罪符」の販売に関して言及した。この行為が宗教改革の過程の発火点となった。もっとも、後に問題として浮び上がってきた教義上の論点はさらに広く深刻なものではあったけれど。

1520年、ルターは教会の状況に関する幾つかの重要な論文、特にバビロン捕囚に関する論文を書いた。彼はローマ・カトリック教会がみことばと聖礼典の中ですべての人に与えられる神のめぐみを奪い取っていると主張した。教会では、救いのためにはよい行ないが必要なのだということを教えていた。さらに一般の人が聖餐式にあずかってぶどう酒をいただくことを否定し、神への犠牲、すなわちカルバリの十字架の死を記念として行なう祝福を否定した。このことによって、主の聖餐は信じる者に与えられる恵みあふれる神の賜物ではなく、信者の行為になった。

その同じ年の1520年ルターはローマ法王によって非難され教会から追放され、市民としては市民権を失った。次の年、ヴォルムスの国会でルターは自分の見解を述べる機会が与えられ、そこで彼は、聖書によって自分の誤りが指摘されるのでなければ、教会への批判を引込めるわけにはいかないと主張した。次第に彼は弁明の中で、法王であれ、議員であれ教会においてはあらゆる権威を放棄すべきだと主張するようになった。彼にとって唯一にして最終の権威は聖書であった。このことは後のルーテル教会の神学的立場の中で最も重要なものとなった。

ルターの新約聖書の翻訳はその後間もなくして1513年にできた。次の年には教義と教会生活を取り扱った多くの論文を発表した。1529年、ルターの大小の教理問答が出された。次の年、アウグスブルグ会議でアウグスブルグ信条がチャールズ五世に献上された。これはルターの親しい友人とウィッテンベルグ大学のフィリップ・メランヒトンによって書かれたものである。フランスとの激しい戦争の後数年経って、チャールズ皇帝はこの会議によって帝国内の宗教上の分派に和平をもたらそうと願ったのであった。プロテスタントの分派はこの時まではまだ統一したグループではなかった。それまでにかなりの努力がなされたが、いずれも失敗に帰した。ルーテル派のグループは神の恵みを受ける手段としての聖礼典に関する教義と、生まれつき全く罪に汚れた人間は自分自身を救うことも救いに導びくこともできず、ただ信仰によって義と認められるという教義をその独特の立場とした。

1530年のアウグスブルグ信条は、ルターのそれ以前の論文と、1529年ツウイングリー派の人達との神学的な論争となったマールブルグ条項を利用してできた。
信仰告白は二つの部分に分れている。第一部は「信仰に関する主なる条項」(1-21)であり、第二はすでに訂正を受けた誤りを再考する項目である。(22-28)この文書はルーテル派の人達が初代教会の教えや聖書からの分離派ではないことを示そうとしたものであった。ローマ教会からの分派を要求したのではなく、むしろ、共通に受け継ぐべきものをまとめたものであった。しかし、ルター自身は福音を根本的に再発見したので、ローマ・カトリック教会に滲透している多くの誤謬への批判をどうしても避けることはできなかった。従って結果的に、このアウグスブルグ信条はカトリック教会に対しても、また教会に対する耐え難い非難に対しても、強い力をもつ信条書となったのである。

次にアウグスブルグ信条で取り上げられている主なテーマを述べて見よう。

第1項第3項では三位一体の神と子なるキリストについての初期の信条に示される教えを述べている。第2項では原罪について。人類はアダムの堕落以後、神を恐れず、神に信頼せず、生まれながらに罪人であると記している。すなわち、聖霊によるバプティスマを受けて生まれ変っていないすべての者には罪の宣告がなされている。これに関して第18項では人間が霊的なことに関しても自由意志を持っているという説を否定している。第4項は義認についてであって、これは全項目の内でも中心的な教えである。

さらに第5、7、14項目ではみことばと、聖礼典を全うすることは、義とされた信仰を得るためにどうしても必要だと述べている。

第9項では、洗礼について。その基本的な特徴は、これは神がお与えくださる恵みであり、救いを受けるために必要だということである。同様に聖餐式の行ない方については第十項で述べられている。これは信仰告白の外面的な表示であるのみならず、失われた人を救うという神の御意志の証でもある。これを受ける者の目を開かせ、信仰の確信を与えるのである。他の項目では、クリスチャンは神への新たな従順を持つ必要があること、そして信仰の結果よい行ないができ、自分の住む一般社会の市民生活にも参加することができるのだと述べている。

第22~28項ではカトリック教会の誤謬の中の次のものが指摘されている。ー聖餐式でパンのみを与えること。会衆の前でキリストを犠牲にすること。修道的誓い。神父の結婚を禁ずること。教会が政治的力を持つこと。

このようにアウグスブルグ信仰告白は、キリスト教信仰の主なる原則を明確にする範囲の広い文書となった。そして同時に宗教改革時にかなりの論争を引き起こした聖書の個所も明白にした。言葉使いは柔らかく、ほんの僅かの誤りが教会の中にあるだけだというような表現もあるが、教義的にははっきりと、信者の側での協力によって義認がなされるというカトリックの見解や、聖礼典を無視したり、それに重きを置かない見解を否定している。

5.アウグスブルグ信条に対する弁護

アウグスブルグ信条はすぐにカトリック教会から Confutatio(弁駁)と呼ばれる文書で批判された。これに対する答えとして、1530年、メランヒトンは長い弁護の文を書いて、批判を一つ一つとり上げ、アウグスブルグ信条をさらに詳しく説明した。

6.大小の教理問答

この二つの教理問答は同じ時期に書かれ、1529年に出版された。ルターは一般の人達が聖書を学び理解することができるように聖書の根本的な真理をまとめ統合することがいかに大切かを悟った。ルターは若い人達が成熟したクリスチャンになり、自分の信仰を告白し、次の世代に教示することができるように願った。キリスト教の根本的な教義についての知識の欠除は牧師の間でも明らかであった。ルターは初代教会の頃からの資料を用いたが、彼の新しい説明と統合の方法を見ると、彼には教える能力と共に新しい福音伝道への展望があったことがわかる。

小教理問答は特に家での子供の教育と、まだ聖書に精通していない人に用いることができるように工夫されたものである。そしてまたこれは、聖餐式にあずかれるよう準備中の人にも用いられるようにと意図されたものであった。大教理問答はもちろんすべての人に役立つものであるが特に他の人を教えている教師の立場にある人のために書かれたものである。従って小教理問答でとり扱っている同じテーマであっても、より深く突込んで書かれているのである。

教理問答の五つの部分は次の通りである。

  1. 十戒
  2. 信仰について
  3. 主の祈り
  4. 洗礼式
  5. 聖餐式

小教理問答は大教理問答より簡潔なので、しばしば信仰告白の表現としてはより適当だと考えられている。

7.シュマルカルド条項

ルター派の人達とカトリック教徒の間の宗教論争を解決するために、ルター派の人達は最初から会議を開こうと主張していた。ルターはルター派の論点を明らかにする条項を起草するようたのまれた。カトリック側にはどんな会議も開かれなかったが、福音派の人達は1537年2月、シュマルカルドに集まった。困難な政治情勢の中で団結が必要なことだとルターは考えていた。しかしながら、聖餐式に関して、伝道者の間にみられる偽りの一致をどうしてもルターは支持することができず、彼は論文を書いた。ルターのこの条項は今日の論争にそのまま引き継がれたが、政治上の意義はほとんど見出せなかった。にもかかわらず、アウグスブルグ信条の説明としての彼らの信仰告白の重要さはまもなく認められた。そして、反ローマ・カトリック教会として、するどく対立する立場をあらわす信条となった。

8.ローマ法王の権力と首位権についての小論

これはメランヒトンが1537年に書いた小論で法王の政治的権力への告発である。キリストの教会では霊的なカのみが働き得るというのである。カトリック教会ではこの原則が破られ、かなりの程度に政治権力が介入していた。

9.一致信条

1580年に書かれた The Book of Concord(和協書)を含めてこれは十番目の信仰告白文である。これは The Book of Concord の3年前に書かれたものである。この信条書の教えの内容は新しいものではなく、アウグスブルグ信条に忠実にもとづいている。しかし、1550年以降ルーテル教会内にいくつかの教義的な論争が起き、そのあるものはアウグスブルグ信条にも触れられていないので、ここで説明の必要があると考える。
論争の中心点は次の5項目である。

  1. 律法。神の律法は新約聖書の時代に生きる人々に教えられることが必要であろうか。それとも福音だけで充分なのではないだろうか?
  2. 人間の意志。回心の時、人間の意志は積極的協力的な働きをするのであろうか?それとも人間の全存在そのものが生まれつき悪なのだろうか?
  3. クリスチャンの義。クリスチャンは本当に義なのであろうか、それとも義は、私達クリスチャンにキリストによって与えられた賜物なのであろうか?
  4. 良い行ない。救いを受けるために良い行為は必要なのか、それとも不必要なもの、また害さえあるものなのだろうか?
  5. クリスチャンのための律法。クリスチャンは自由にしていても律法を全うできるのか、それとも絶えず教示される必要があるのだろうか?

このような論争点また他の論議をひき起こしている分野について一致信条は12項目を取り上げ、二段構えで示している。最初は簡潔に問題を述査正しい聖書的立場、信仰的立場を表明し、そして反対の見解を退けている。次にその同じ問題を徹底的に論述している。

ここで主なる論争点を述べる。

第1項目、人間の性質と原罪とを区別しなければならない。最初、人が創造された時、それはすばらしい創造物であった。けれども罪によって汚れたものとなり、従って神との和解が必要になったのである。

第2項目、人間の意志は霊的な事柄に関しては自由に働がき得るのではない。みことばによって働くのは、聖霊である。

第11項目には神の予知について。神は誰が救われ、誰が死に到るべきか予知できる。しかしながら、神は誰もが死に渡たされるべきではないと定めておられる。この約束は普遍的である。救いは神からの賜物である。そして死にいたることは個々人の責任である。

第3項目では信仰はよい行為の結果ではないことを述べている。私達はキリストの故に、信仰によって義とされたのである。にもかかわらず、第4項目では、良い行ないは私達の信仰が生きて働くことを証するものであることを述べている。

第5,6項目では律法は死を宣告し、福音は約束によって慰めを与えることにっいて述べている。律法もまた神聖な教義であり、否定されるべきではない。しかし、その本当の意味は福音の光の中でのみ見られるのである。クリスチャンは日常生活の中でやはり律法による導きをも必要としているのである。

第8項目ではキリストが真に神であり、真に人であることについて。第七項目ではそのキリストが聖餐式をとり行なわれることについて。このことのために、キリストの体パンとぶどう酒によって具体的に表わされるのである。

第10項目では他の教会儀式について。聖書に命令されてはいない教会の儀式でみことばに反しないのなら持続してよい。しかし、それらの教会の儀式がある人々の良心には重荷となるかもしれない。そしてそれらの儀式が行なわねばならないものとして課されるならば、もはやアディアフォラではなく、クリスチャンの自由を奪うものとなる。

一致信条と和協信条に入っている、すでに述べた九種の信条書を一緒にしてルーテル教会の信条書は最終段階を迎えたのである。

第三章 ルーテル教会の信条書の中心的教え

1.聖書について

どの信仰告自文も聖書については特別の項目を設けてはいない。このことは聖書がそれ程価値のあるものではないということを示しているのでは決してないのである。教会のすべての教義はただ一つの基準、すなわち新旧約聖書によるのである。アウグスブルグ信仰告白は、神聖なる聖書に基づいているものであることを断言し、「純粋な神のみことばとキリストの示される真理」に同意することを明白に述べている。もし誰かがある点が不充分であると指摘するのなら、「私達は聖書に基づいてさらに詳しく述べる用意がある。」(CA.Concl.7)

聖書からの引用は常に決定的で最終的な証明を示すものである。信仰告白は聖書に見られる同じ真理の証を何度も強調し、それによってある一節の聖書の曲解を避けているのである。(Apol.XXIV.95)
教会教父の権威も同じように聖書に基づいているのである。彼らもまた誤ちを犯したり、だまされたりする人間なのである。聖アウグスチヌスのような人の言葉でさえ、聖書のみことばの支持がなければ受け入れるべきではない。使徒ペテロの書いた聖書のある一節の引用は教会教父の幾千もの引用を退けるのに十分なのである。
一致信条の中では、他の信仰告白よりも聖書についての明白な表現を見ることができる。「新旧約聖書にある預言者や使徒達の文書は唯一の法則や基準であって、それによってあらゆる教義や教師が評価され判定されるのである。」と述べられている。(EP.Comp.Sum.1)

聖書は唯一の審判であり、法則であり、基準である。そして、他のすべての文書はそれに従属すべきなのである。だから信仰告白はどんな場合でも、人が神の御ことばを聞き認めたことを確信しているので、聖書についての説明書だといえるのである。
ルターは自分の教理問答を「聖書の概略と大要」であるように意図した。(L.C.Longer Pref.18)

教理問答は「聖書がより詳しく論じているすてのことと、クリスチャンが自分の救いのために知っておかねばならないすべてのことを網羅している。」とコンコード信条は主張する。(EP.Comp.Sum.5)
ルーテル教会の信条書は聖書の起源や特徴についての項は何もないが、聖書は聖霊の御業による神のみことばであるとし、だから教会での教えや礼拝説教のすべての基準であるとしている。

2.キリストについて

初代教会の頃は、キリストの人としての面に論争が集中した。ルーテル教会の信条書は古い言語的表現をとっており、キリストについては真に神であり、真に人であるという告白をなしている。これは思索によって生まれたものではなく、福音そのものにとって根本的に重要なことなのである。キリストは神なる性質と人なる性質を結び合せているのである。アウグスブルグ信条ではキリストと罪深い人間の性質を比較している。完全で清く聖なる御方、イエス・キリストだけがどうしても必要な神との和解をなしとげることができたのである。永遠の昔から存在された同じキリストは処女マリヤからお生まれになり、苦しみを受けられ、十字架につけられ、死んで葬られ、よみがえり、天に上り、この世を権威をもって裁かれるために再び来られるのである。

しかし、私達は二種のキリスト-人間であるキリスト、神であるキリスト-を持っているのではない。ベツレヘムでお生まれになた幼子は、神でもあり、人でもあった。そして宮にいた十二歳の少年もそうなのであった。ヨハネによって洗礼を受けられたキリストは人を癒し、奇跡をなし、罪のゆるしを説いてまわられ、ゲッセマネで苦しまれ、ゴルゴダの丘の上で父から見捨てられ、墓に葬られ、復活し、父のみもとに行かれたのである。人としてのキリストだけがある時に存在し、また、別の時に神としてのキリストが存在したというようなことはどんな場合にもない。両者は共に在り、分離できず、ナザレ人イエスとしてふるまわれる時、神としてのキリストもそこにおられたのである。

それにもかかわらず、神の御子が人となられた時、彼はその栄光と権威を捨て、ヘりくだられ、神の欲せられる時にのみ、その栄光と権威を用いられた。復活の後には恥かしめはなかったが、人としての性質は持っておられた。よみがえられ、天に上げられたキリストはまた人としてのイエスでもあり、それは神の全き姿が肉体をもって現われたのである(コロサイ2:9、ピリピ2:7)。

私達は一致信条の中にこの要約された聖書の真理を見る。初代教会の頃も、宗教改革の時も、キリストが神と人との合体であることを強調する必要があった。私達人間は神秘なこの事実を理解することができないことを認めはしても、私達クリスチャンの信仰にとって非常に大切な影響力をもっ神秘な事実なのである。「キリストは肉において現われ、霊において義とせられ御使いたちに見られ・・・」(Ⅰテモテ3:16)

もし、単なる普通の人が十字架で死んだとしても、その死は私達に何の益ももたらさないであろう。しかし、神であり、人である方が苦しまれ、死なれた故に、それは、私達すべてのものに和解をもたらすのである。だから、私達は「神は死なれた」とも「神は死ぬことはできない」ともいえるのである。このことは私達の心では解くことのできない十字架の神秘なのである。

キリストの御業は一つの性質にのみ帰するのでなく、両方によっているのである。その両方の性質がある故に、キリストは私達の仲保者であり、和解者であり、王であり、よい教師であり、羊飼であり、私達を義とすることのできる御方なのである。(F.C.Sol Decl. VIII46-47)このことに関して、使徒ヨハネは記している。「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(Ⅰヨハネ1:7)

3.義とされること

アウグスブルグ信条の第4項目では義認について記されているが、それは人との関係ではなく、ひたすら、神との関係である。この義とせられることについては、人は何もすることはできないのである。人は信仰によって無償でキリストの故に義とされるのである。従って、義となるための土台はキリストであり、信仰はそれを果すための道なのである。義とされた信仰を持っということは、キリストが私の罪のために死なれたということを信じることである。信仰はもはや心理学的なレベルのことをいうのではなく、神との関係なのである。神が私達を受け入れてくださったのは私達が聖く義であるからでなく、キリストの故であって、ここに神のめぐみがあるのである。神の前にクリスチャンが義とされるのは彼自身の故ではなく、キリストの故なのである。義はクリスチャンの外部から来るのである。 義認についてのルーテル派の立場は、私達の内部ではなく外部に在る神の御業に焦点が置かれている。クリスチャンはいつまでも罪人である。罪が洗礼によって消されてしまうのではなく、クリスチャンは罪人ではあるが義とされているのである。古い罪深い性質は私達が死ぬまで存続し、だんだん良くなるというようなものではないのである。人間の意志は神の意志と相異なり、しかも罪は非常に根深いので、人間はもはや神を喜ばせることはできないのである。それにもかかわらず、人がキリストを信じる時、キリストの故に神の前に義とせられるのである。

これがルターの宗教改革の中心点である。ルターは彼自身と闘い、また神を喜ばすために何かしようとする彼自身から出てくる義とも闘った。ついに彼は信仰による義認を発見したのである。ローマ人への手紙1:16~17に記され ているように信仰による義認は自分自身から出る義ではなく、キリストの故に罪のゆるしとして与えられる義なのである。義認はこのように神の側にのみ在る。

キリストに現わされる神の行為は明らかに客観的なものであり、人の側の信仰の程度に依存するようなものではないのである。しかしながら、ルーテル教会の信条書には個人的なレベルでの義認とは別の和解に関する神学的教義については関心が向けられていない。人が自分に対するキリストの御業を信じる時、彼は信仰によって義とされる。言い換えれば神との和解が彼をつつみ込むのである。義とされた信仰は罪への後悔ではなく、神の恵みに対する信頼と確信なのである。だから信仰のみが義とする力を持つともいえるし、信仰によって義とされるともいえるのである(ローマ3:26)。

聖書的に義とされるということは、キリストのゆえに、罪人が義となるということを意味している。義とせられることもそしてクリスチャンとしての新しい生活に現われる義の結果も共に神からの賜物なのである。信者はこれを作りだすことはできず、単にこれらの賜物を受け取るだけである。

4.律法と福音

厳密な意味で神のことばが福音である。聖書は神が人のためになさった救いの御業について語っている。しかし、神のことばを律法と福音という二つに分けることも必要である。聖書の中でも区別されている。聖書の全体はこの二つに分けることができる。それは新約と旧約という区別と必すしも同じではない。

信仰を起こすために律法と福音の両方を使うことが必要である。律法は私達に何かを要求し、福音は無償で与え法る。私達がここで律法といっているのは、イスラエルの儀式的なまた牧会的な律法をいっているのではなく、十戒に示される明らかな行動基準についていうのである。これは後の世にすべて適用された。十戒は人に対する神の意志を明らかにしている。十戒は唯一の神を礼拝するよう要求し、すべての人が正しい生活をするよう命令している。

律法の働きは罪を明らかにすることであり、聖なる神と罪深い人間がいかに隔たっているかを示すのである。律法は人を恐怖に落とし入れる。神の律法を守らなかった故に神の裁きの前に失われるともいうのである。律法はいつも私達を責め、慰めを与えてはくれない。

他方、福音は要求をつきつけるメッセージではない。それは新しい律法である。福音はキリストの御業によって慰め、希望、そして約東をもたらすのである。ルーテル教会の信条書は「神の不思議な御業」として律法の業を説明し、福音の業を「真の(あるいは適切な)御業」だと説明している。このことによって、ルターの信仰告白は、神の窮極の目的はすべての者が、福音のよきおとずれに仕えることであるという。律法さえもこの目的のためにあるのである。だから律法と福音の区別を神学的にするのではなく、福音をたたえ、明らかにするためにするのである。律は信仰を生じさせず、恐怖と悲しみのみを起こす。しかし、律法がなければ福音は伝えられなかった。福音が持っ慰めの業は律法の非難の行為が先になければならないのである。

それでは、聖書をどのようにして律法と福音に分けるのであろうか。モーセとキリストという区分と同じであろうか。それとも旧約と新約という区分であろうか。そうではない。モーセの教えの中にも福音を見つけることができるし、十戒の中にさえ、神は「わたしはあなたの神である」とある。神はここで人々を自分の民と認めている。他方、私達はキリストの教えの中に律法を見ることもある。マルコ1:17-22の中でイエスが金持ちの若い人に話されている時、またマタイによる福音書5章~7章で山上の垂訓を話される時、キリストは「手に津法を持ち、霊的に説明せよ」といっておられる。(E.PV.8)

事実、キリストは罪の真の性質をモーセよりすぐれた方法で教えておられる。「キリストの霊は慰めを与えるだけでなく、律法を通して罪の世界を悟らせるのである。」(Sol Decl. V,11)神のひとり子、キリストの死と苦しみさえも、大切な恐るべき教えであり、神の怒りの表現であり、それが人々の目を律法に向けさせるのである。」(EP.V,9)本当に罪についての神の怒りをより明白に教えるのにキリストの情熱と、死以外に何があるだろうか。

このように十字架の教えも律法と福音なのである。「私達の罪と神の怒りについての教えはすべてどんな場合でも律法を示しているのである。他方、福音はキリストの恵みと許しを公言しているのである。」

ルーテル教会の信条書における律法の働きは次の三つに分けられる。

  1. 政治上の使用ー私達の日常生活と社会を悪より守るための規則の設定
  2. 神学的使用ー罪を明らかにする神の怒りを示し、罪人がキリストに拠り所を求めるよう促す。
  3. 第三の使用ークリスチャンが神の御旨によって歩むように訓戒する。

この三点のうちでは明らかに第二の点が神の律法の中心的な使用法だと考えられる。なぜなら神はすべての人が救われることを意図しておられるからである。

ルーテル教会の信条書や改革時代の神学者達は律法と福音の区別のために長い説明を要した。なぜその区別がそんなに重要なのであろうか? 福音のみがキリストにある救いの信仰を生じさせ得るのである。だから、キリストについての福音は救いを受けるために従わねばならない新しい律法として提示されるようなことがあってはならないのである。ここにルーテル教会の信条書と改革派の伝統的強調点に明白な相違がある。

もし私達が律法と福音をそのように混同してしまうなら、私達は無償で与えられる賜物としての福音の正しい内容を失ってしまうことになる。律法は要求するが福音はそうではない。恐怖におののく罪人に対してさらに多くの要求などするべきではない。そうではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる無償の賜物を罪人は受けるのである。思慮の足りない無関心な罪人は、彼の罪に対する神の怒りがいかなるものかをまず悟ってからでなければ、福音の恩恵を受け得ないのである。このことを罪人は律法の働きを通してのみ悟ることができるのである。

聖書はすべて、そして今日の聖書の説教はすべて人々の心に救いの信仰を起こすことを目的としている。だからこそ「キリストの霊は単に慰めを与えるだけでなく、律法を通して人々に罪の世界を明らかにしなければならないのである。」(Sol Decl. V,11)

聖書の窮極の目的が単に罪に対する神の怒りを示すだけでなく、神の恵みを示すことにあるのであるから、聖書はこの目的にかなっており、その意味で聖書全体を福音と呼ぶことができるのである。しかし、みことばによる聖霊の様々の御業を区別するため、また、福音を無償の賜物とするので、ルーテル教会の信条書では律法と福音の明確な区分が必要だと考えるのである。死をもたらすメッセージが律法であり、いのちをもたらすメッセージが福音である。

5.聖礼典(サクラメント)について

厳密にいえば、神のみことばは神が私達に恵みを与えようとなさる手段である。みことばから離れて、神が私達と交わることはない。このみことばの働きはいろいろな形で表わされる。-説教、信者の交わり、祈り、カウンセリング、神の許しをクリスチャンの兄弟に表明すること、主の聖餐と洗礼等々である。「恵みを賜う方法」について述べる時は、キリストが私達に命じておられることと、神が罪のゆるしと永遠のいのちを約束しておられることに関する内容に限定して述べているのである。みことばの他に、聖礼典と呼ばれているものに洗礼式と聖餐式がある。みことばは説教や聖礼典においても真にして唯一の恵みを伝える方法であるが、聖餐式では目に見えるしるしを伴うのである。従って、聖礼典は目に見えるみことば、とも呼ばれている。

ルーテル教会の信条書では聖礼典とは一般的にいって何かというような神学的な定義づけには全く関心を払ってはいないのだが、独自の立場から会衆にとっての意味を説明している。聖礼典は「人々の前に信仰告白をしたしるしであるばかりでなく、私達に対する神の御旨がいかなるものか、またそれをどう受けとっているかの証でもあり、神はそれを行う者の信仰を新たにし、確信を与えようとしているのである。」ということなのである。聖礼典をただ単に外観できる行為と考えてはならない。神より与えられた約束に対する信仰なくして、私達に何の益ももたらさないのである。私達を義とするのは聖礼典ではなく、そこに示される信仰なのである。聖礼典が持つ現実的な意味は私達の信仰に相対的に示されるのではない。紙が私達にみことばをお与えくださったように(それを信じるか信じないかは別として)聖礼典も私達に与えられたものなのである。私達が神からの約束を信じる信仰によってのみ聖礼典が私達に神の意図された益をもたらすことができるのである。

○洗礼式について

ルーテル教会の信条書は洗礼について次の三つの原則を強調する。

  1. 制度上は三位一体の神によ0て行なわれ、救いのために必要である。
  2. 洗礼式を通して神の恵みが与えられる。
  3. 神によって制度化され、命令されており、すべての人に施されるべきである。だから幼児も洗礼を受けるべきである。この原則によって、これまでの様々な合理論による論争-洗礼を受けることがどれ程重要なことなのか、また、信じることのできない幼児に洗礼を受けさせることが何故大切なのか-が退けられた。すべての人が救われることを意図しておられる神は、幼い子供にも神の王国への道を開いておられ、みことばの中ですべての人が洗礼を受けるよう計画しておられる。さらに神は恵みの約束とこの聖礼典とを結びつけられた。だから洗礼を受けることによって益があると考えることは、不信仰であり、神の恵みを拒否することである。

洗礼式は水とみことばから成り立っている。みことばがなければ、洗礼式は単なる水だけになってしまう。みことばに結びつけられるならば神は私達を神との交わりの中に入れてくださるのである。洗礼の意味は罪の死と新しい命のよみがえりである。しかし、洗礼を受けることによって罪がとり除かれるのではない。罪はいぜんとして私達の内に力を持って働き、私達を誘惑するのである。だから、クリスチャンとして生きるということは、洗礼に示された約束にたち返り、古き性質を脱ぎ去り、日々新しくよみがえることである。だから洗礼は自分の罪に対する歎きと悔い改めとに密接に関係しており、罪のゆるしの約東を繰り返えし、繰り返えし信頼することなのである。この状態は肉体の死まで続くのである。一生の間、律法と福音に従順であろうとして悔改め続けるのである。洗礼によって生じる結果は義とせられたことの結果であり、罪からのゆるし、死と悪からの解放そして永遠の命を与えられているということである。だから洗礼は「聖霊による再生の洗い」と呼ばれるのである(テトス3:5)。

みことばは信仰を持って受け取られねばならないように、洗礼もそうである。みことばが信仰を生ぜしめ、信仰を強めるように、洗礼もそうなのである。ある人はこの恵みを拒否するかもしれないが、新たに洗礼を受けるのではなく、信仰を新たにすることによって洗礼の恵みにもどるであろう。

○聖餐式

この聖礼典もキリストによって施される。洗礼式と同様神のみことばに関した目に見える行為と定義されている。ルーテル教会の信条書は聖餐式の内容そのものについて思索することには関心を払っていないがみことばとその内容の結合に強調点を置いている。キリストが聖餐式を施されるのであるから、パンとふどう酒はもはや普通のパンとぶどう酒ではなく、キリストが明白に御自分の体と血であることを示されたのである。このように制定されたのであるから、キリストが命ぜられる時今日どこにおいてもそうなのである。だから、聖餐式はキリストの名のもとに行なわれるのである。そこに何ら神秘的なものは存しないのである。神のみことばによってパンとぶどう酒はキリストの真の御体と血になるのである。

神のみことばは聖餐式を通して罪の許しをもたらすのである。「福音の全体がこの聖礼典に含まれ、みことばによって私達に与えられるのである。」(L.c.v乙じ「あなたに与えられた」みことば、そして「あなたに注がれた」みことばは許しを述べているだけでなく、実際に差出し、与えておられるのである。みことばを信じる者は誰でも罪から許され、永遠の命を与えられるのである。聖餐式は私達がキリストにある信仰によってすでに得ているものを強調するだけの象徴的行為にすぎないのではない。行なうたびに毎回祝され、パンとぶどう酒に現われておられる。生きて働かれる救い主との新しい交わりに入ることができるのである。キリストは真実、具体的にそこに臨んでおられるのである。それはキリストが人間として地上をお歩きになったのと同じなのである。

別の言い方をすれば、聖餐式はゴルゴダの丘での犠牲の繰り返しではない。私達はキリストを二度も三度も犠牲にするのではない。ローマ・カトリっク教会が教えるように、キリストの犠牲があるのでなく、賜物を受けることのみがある。私達が受取人で神が与え主である。

聖餐式の意味は次のように要約することができる。

  1. 罪の許しを受け、キリストとの交わりを得ること。
  2. 日々の生活の中で罪と闘0ている信者が強められること。
  3. キリストの死と復活による神の救いの業を信者に思い出させること。
  4. 信者同志のつながりを深めること。
  5. キリストの十字架の死の意味を公言すること。
  6. 各自の信仰告白

聖礼典が神からの特別の恵みを与えるのではない。神の恵みはみことばにも聖礼典にも同じように示される。しかも、私達が神の恵みを確かなものにする具体的な方法として、聖礼典がつけ加えられているのである。その形式についてあまりこだわるべきではない。私達は聖礼典の示す約束に注目すべきなのである。

6.クリスチャンと教会

神の国と悪魔の国はこの世で常に闘っている。そこでの唯一の真実なる武器は霊的なものである。信者が集まり、福音が正しく伝えられ、聖礼典が正しく行なわれている。キリストの教会、すなわち神の国はどこでも一つの教会なのである。教会はある種の人々や建物によって成り立っているのでなくキリストによる信者によって立てられているのである。そしてキリストの教会では聖書が正しく教えられ、キリストの制定された聖餐式が行なわれなければならない。教会はこれらの恵みの方法と密接につながっているのであって、離れて存在しているのではない。信仰はみことばと聖礼典につながり、信者は会衆と教会につながっているのである。信仰はこれらの在るところにのみ在り、救いも離れて存在するのではない。

キリストの教会は、歴史上のいかなる教会とも同一ではあり得ない。しかし、信者が正しい福音の教えによって集まり、聖礼典も正しく行なわれたどんな歴史上の教会にもキリストの教会は在る。だから、信仰にある一致はみことばと聖礼典の一致と別のものではない。

教会への命令として、神はみことばを教えることと聖礼典を行なうことを与えておられる。この聖職のために召されている人は誰でも、他の信者のために、この務めを正しく行なうのである。すべての教会が正しく説教し、教え、罪を許し、説教者を送り出す権利を与えられているのである。この霊的な務めはすべての信者に与えられている。だから、聖職者によって行なわれる公けの儀式は信者の集まりによって権威づけられるのである。

いかなる教会の組織も聖く絶対的なものではない。どんな教会もみことばと聖礼典の最も大切な働きが信者のために役立つものでなければならない。教会の一致は信仰の一致であり、組織の一致ではない。教会の一致はすべての信者をどんな場合にも常に受け入れる。信仰の一致のないところでは、教会がどんな組織を持っているとしてもキリストの教会としての一致はないのである。信仰面での同意は一致するためにどうしても必要である。教会の中にはよく偽善者がいるように、会衆の中にも常に死んだような信者がいるし、みことばと聖礼典を行なうために召されている聖職者の中にさえ死んだような人がいるのである。

神だけがその信者の心を御存知であり、神だけが真に神の教会であるかどうかの境界線を引くことができるのである。不信仰な聖職者は教会の恥であるとしても、キリストによる恵みの賜物の施行はより素晴らしいのである。だから、私達は、不信仰な人からも聖礼典を受け、罪のゆるしのみことばを聞くかもしれないのである。真の信仰を保つために、会衆は偽りの教えや明らかな悪、聖礼典への侮辱、悔い改めのない態度を持つ人達を会衆の中から除いていかねばならない。しかし、教会外での交わりにおいては不信仰な人達とも忍耐強く接していくべきである。キリストの王国である真の教会はこの不完全な外部の人達との交わりの中にも見いだされるべきなのである。教会は信仰を持つ罪人の集まりであり、義とされ、神の意思に従うように新しくされ、その生活を聖められた者達の集まりなのである。

前に述べたように、神の律法は市民のこの世の生活の指針でもある。この社会では、クリスチャンもその一員であり、忍耐と正直をもって自分の責任を果たし、現存の法律と政府に従うことも表明す一きである。神は教会だけではなく、この世界全体の創造者であり、神がこの世も守り治めるのである。だから、この世の政府を治める信者であっても未信者であっても、神の創造のうちにある。だからクリスチャンはこの世の条令を正しく用いてよいのであり、またそうすべきでもある。

従ってクリスチャンは二つの王国メンバーとなる。一つはキリストの教会、他はこの世の社会である。神はその両方を治め給うのである。前者はイエス・キリストにある恵みによって治め、後者は、創造物と社会について神が持っておられる賢明なる律法と命令によってである。

まとめ

我々はここに西日本福音ルーテル教会の信仰告白の基準となるものを明らかにしようとした。第一章では、西日本福音ルーテル教会の憲法に含まれているルーテル教会の信条書が聖書とどのような関係に立っているかが説明せられた。第二章ではルーテル教会の信条書を歴史的に考察した。信条書は、牧師や会衆の中に侵入してくる異端との闘いという危機的状況の中で起草された。信条書の主なる教えは第三章の中で六項目について述べられた二

私達はここでルーテル教会の信条書の本質を示そうとしたが、他の信条書についての論争も少しの紙面で論じた。ルーテル教会と。ー「・カトリック教会との対立点、改革派とルター派との対立点も明らかにされたと考える。

キリストの故に信仰のみによる義認は人間の側でのあらゆる努力や協力を除外する。これはローマ・カトリック教会の見解との明白な相違点である。クリスチャンの信仰は神の恵みとともに生きることであり、日々悔い改めをなし、許しを受けることである。クリスチャンは生きている間中中、決して完全なものになり得ないのである。人は罪人であり、同時に義人でもある。

律法と福音の区別においてルーテル教会では独特の立場をとる。神のみことばのなす業は二重である。死を宣告すると同時に命を与えるのであって、しかも同じ聖霊によるのである。このことは、福音の歪曲をくい止めることになる。福音は決して律法として扱われてはならない。福音のみが慰めといのちを与えるのである。

聖礼典は恵みを表わす真実の方法である。聖礼典は単なる儀式ではなく、罪のゆるしについて目に見えるみことばである。これは改革派の教えと明白に対立する点である。改革派では聖礼典は単なる神の恵みのしるしであり、信仰告白の行為であるとする。十字架の死についてのローマ・カトリック教会の見解は否定され、聖礼典をよい業とするのも否定された。

ルーテル教会の信条書は危機状況の中で生まれたのであるが、特に新しいものを要求しているのではない。それらは聖書の説明であり、聖書の標準に全く従っているのである。ルーテル教会の信条書は教会であれ、人間の理性であれ、聖書以外のいかなる権威にも助力を求めていないのである。