アモス 3:13 万軍の神、主なる神は言われる。聞け、ヤコブの家に警告せよ。
3:14 わたしがイスラエルの罪を罰する日に ベテルの祭壇に罰を下す。祭壇の角は切られて地に落ちる。
3:15 わたしは冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び、大邸宅も消えうせると 主は言われる。
4:1 この言葉を聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる女たちよ。「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」と 夫に向かって言う者らよ。
4:2 主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる。
4:3 お前たちは次々に、城壁の破れから引き出され ヘルモンの方へ投げ出されると 主は言われる。
4:4 ベテルに行って罪を犯し ギルガルに行って罪を重ねよ。朝ごとにいけにえを携え 三日目には十分の一税を納めるがよい。
4:5 感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼け。大声で、随意の献げ物をする、と触れ回れ。イスラエルの人々よ それがお前たちの好んでいることだと 主なる神は言われる。
詩篇 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ 生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 苦難に遭わされた年月を思って わたしたちに喜びを返してください。
90:16 あなたの僕らが御業を仰ぎ 子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
90:17 わたしたちの神、主の喜びが わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。
マタイ 15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちの行動は、他人に見せるためのものであり、自分がどれだけ神を敬い、優れた人物であるかということを周囲に認めさせるためのものであったと言えよう。
だから、どんなに律法の戒めを守っていると主張しても、それは、神のためにではなく自分のためになされているものでしかなく、神の御言葉に聞き従うという本質からは遠く離れたものとなっている。
そうならないためには、常に御言葉に聞き、語られていることの本質を悟る必要がある。
しかし、聖書の言葉は、そう簡単なものではなく、複雑であり、時に矛盾しているのではないかと思えるようなこともあるかもしれない。
一字一句、忠実に聞き従って行くことは大切であるが、その言葉が語られた時の状況や背景、その目的や、その後の影響など、慎重に読み解く必要がある。
たとえば、「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。」と語られているが、世の中に自分の両親を一度でも罵ったことのない人がいるだろうか。ののしるまでは行かなくても、口答えをしたり、反発をしたりしたことの一度や二度くらいはあるだろう。
すると、全ての人が死刑に処せられなければならない。
しかし、主なる神様はそれを望んではいない。
むしろ、そうはさせたくないからこそ、御子イエス様を身代わりで十字架で処刑されたのである。
一字一句、原理主義的に語られた通りに従おうとすることで見えにくくなることもある。
だから、聖書は聖書全体を俯瞰しながら読み進める必要がある。
なによりも大切なことは、神は私たちを愛し、救おうと願っておられるということである。
ヨハネ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神様の真の思いがどこにあり、本質がどこにあるのか見失わないようにしつつ、御言葉に聞き従っていきたいものである。