ヨシュア 6:22 ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。
6:23 斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
6:24 彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。
6:25 遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。
6:26 ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は 主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い 城門を建てたときに末子を失う。」
6:27 主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。
詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。
マタイ 21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
ヨシュア率いるイスラエルの民がエリコの町に侵攻した時、遊女ラハブは二人のスパイをかくまい、彼らを逃し、イスラエル軍に勝利をもたらすきっかけとなった。
しかし、ラハブはなぜイスラエルに味方したのだろうかと考えてみた。
きっと、エリコでは、彼らは人として扱われず、虐げられた暮らしを強いられていたのではないかと思う。
一方、イスラエルにしてみれば、ラハブのおかげで勝利することができたのだから、功労者であり、彼らのその後の生活が保証されたのは当然であろう。
人として、しかも、大いに尊ばれる存在として、ラハブとその家族はイスラエルに招き入れられたのである。
それまでは人として尊重されずに生きてきた者が、かけがえのない尊い存在として迎えられたことは、ラハブとその家族にとっては、大きな喜びであっただろう。
私たちもまた、かつてはラハブのように社会の中で、人として尊重されず、社会の歯車の一つに過ぎないようなものとして扱われ、あるいは、居てもいなくてもどちらでも構わないものとか、むしろ存在を否定され、虐げられて生きてきたようなものであった。
けれども、主なる神様は、こんな小さな者のために、ご自分の御子イエス様の命を差し出してまで、救おうとしてくださった。
そして、まるで神の子のごとく、丁重に、尊い存在として神の国に招き入れて下さるのである。
周囲の人、あるいは、社会から、世界から、どのように見られているか、時に悩むことも多い。
けれども、主なる神様が私のことをどう見てい下さっているか、命をかけても惜しくないほど愛して下さっているということを覚えて、この神の愛の中で生きて行きたいものである。