士師 15:9 ペリシテ人は、ユダに上って来て陣を敷き、レヒに向かって展開した。
15:10 ユダの人々は、「なぜ我々に向かって上って来るのか」とただしたところ、彼らは、「攻め上って来たのはサムソンを縛り上げ、我々に対する仕打ちのお返しをするためだ」と答えた。
15:11 ユダの人々三千人が、エタムの岩の裂け目に下って行き、サムソンに言った。「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。なんということをしてくれた。」サムソンは答えた。「彼らがわたしにしたように、彼らにしただけだ。」
15:12 彼らはサムソンに言った。「我々は、お前を縛ってペリシテ人の手に渡すためにやって来た。」サムソンは言った。「あなたたちはわたしに害を加えないと誓ってくれるか。」
15:13 彼らは言った。「我々はただお前を縛って彼らの手に渡すだけだ。殺しはしない。」彼らはこうして、新しい縄二本でサムソンを縛り、岩から連れ出し、上って来た。
15:14 サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。
15:15 彼は、真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した。
15:16 そこで彼は言った。「ろばのあご骨で、ひと山、ふた山 ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」
15:17 こう言い終わると、彼は手に持っていたあご骨を投げ捨てた。こうして、その場所はラマト・レヒ(あご骨の高台)と呼ばれるようになった。
15:18 彼は非常に喉が渇いていたので、主に祈って言った。「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました。しかし今、わたしは喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています。」
15:19 神はレヒのくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされた。彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った。それゆえ、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれ、今日もレヒにある。
15:20 彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。

イザヤ 38:10 わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか 陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。
38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり 消えゆく者の国に住む者に加えられ もう人を見ることもない、と。
38:12 わたしの生涯は羊飼いの天幕のように 引き抜かれ、取り去られてしまった。わたしはわたしの命を織物のように巻き終わり 糸から切り離されてしまった。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:13 夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け 獅子に砕かれるように わたしの骨はことごとく砕かれてしまう。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:14 つばめや鶴のように わたしはすすり泣きの声をあげ 鳩のようにわたしは呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください。
38:15 わたしは何と言えば答えてもらえるのか そのようなことをなさる主に。わたしは心に苦痛を抱きながら すべての年月をあえぎ行かねばならないのか。
38:16 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
38:17 見よ、わたしの受けた苦痛は 平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ 滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて あなたの後ろに投げ捨ててくださった。
38:18 陰府があなたに感謝することはなく 死があなたを賛美することはないので 墓に下る者は あなたのまことを期待することができない。
38:19 命ある者、命ある者のみが 今日の、わたしのようにあなたに感謝し 父は子にあなたのまことを知らせるのです。
38:20 主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で わたしの音楽を共に奏でるでしょう。

マタイ 17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
17:15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
17:21 しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。

私たちの人生には、様々なことが起きる。
おおよそ、若い頃には想像していなかったようなことも起こる。
そんな時、どうしてこんなことになってしまったのかと慌てふためき、なんとか解決せねばと、あの手この手を考え、結果、翻弄されてしまう。
何もない人生などありえないし、何が起こるか分からないのだから、もう少し落ち着いて過ごせればいいのだが、なかなかそうもいかない。
現代は、様々な災害や災いが次から次へと押し寄せてくるように思う人もいるだろう。
怖がってしまい、不安で不安で仕方がないという人もいるだろうし、災害に備えて、非常食などを蓄えている方もおられるだろう。
けれど、それがあれば安心かと言うと、そういうものでもない。
非常用の食料など、持って三日、それが尽きてから、どう生きて行くか、実はそういったことの方が重要だったりする。
私も神戸で阪神大震災を経験したが、最初の数日間のことは、気が動転していたのか必死だったからなのか、断片的にしか覚えていないが、それからあとの数ヶ月間のことの方が覚えている。それだけいろんなことがあったからだ。
人は自分が想像できる範囲でしか備えはできないが、想定していなかったようなことが次から次へと起きるものである。
ある程度の備えは大切である。しかし、私たちには分からない事、予期せぬことなど、想像以上に多い。
そんなことまでいちいち備えようとしても無理であるし、わからないからこそ恐れるのかもしれない。
だから、分からないことまで備えようと不安を膨らませるのではなく、何があっても動じることのないよう、いつも変わることなく私たちを愛し、命をかけて救って下さった主なる神様のことを覚え、この方に委ね、信じて生きて行きたい。
そうすれば、何があろうと、何が起ころうと、私たちはいつでも心強い、はずである。
からし種一粒ほどの信仰で良い。
イエス様を信じ、委ねて生きて行こう。

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