ヨシュア 22:10 ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族は、カナンの土地にあるヨルダン川のゲリロトに着いたとき、そこに一つの祭壇を築いた。それは目立って大きい祭壇であった。
22:11 イスラエルの人々は、ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族がカナンの地境、ヨルダン川のイスラエル側のゲリロトに祭壇を築いたとの知らせを聞いた。
22:12 これを聞いたイスラエルの人々は、シロで、イスラエルの人々の共同体全体の集まりを開き、彼らに対して軍を差し向けることにした。
22:13 イスラエルの人々はまず、ギレアド地方にいるルベンとガドの人々、およびマナセの半部族のもとに祭司エルアザルの子ピネハスを遣わした。
22:14 彼に同行したのは、イスラエルの各部族から、それぞれ家系の指導者一名、計十名の指導者であり、いずれもイスラエルの部隊の家系の長であった。
22:15 彼らは、ギレアド地方にいるルベンとガドの人々、およびマナセの半部族のもとに着くと、こう告げた。
22:16 「主の共同体全体はこう言う。お前たちが今日、イスラエルの神、主に背いたこの背信の行為は何事か。お前たちは、今日、自分たちのために祭壇を築いて、主に逆らっている。
22:17 かつてペオルで犯したあの罪は、我々にとってささいなことであっただろうか。あのとき、主の共同体に災害がくだり、今日に至ってもまだ清められていないではないか。
22:18 それなのに、お前たちは今日、主に背こうとしている。今日、主に逆らうなら、明日、イスラエルの共同体全体に御怒りが下るであろう。
22:19 もしもお前たちの所有地が汚れているなら、主の幕屋がある主の所有地に渡って来て、わたしたちの間に所有地を持つがよい。わたしたちの神、主の祭壇のほかに、自分たちの祭壇を築いて、主に逆らい、わたしたちに逆らってはならない。
22:20 ゼラの子アカンが滅ぼし尽くしてささげるべきもののことで背いたとき、イスラエルの共同体全体に御怒りが下り、その罪のために息絶えたのは、彼一人だけではなかった。」

詩篇 34:16 主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
34:17 主は悪を行う者に御顔を向け その名の記念を地上から絶たれる。
34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。
34:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。
34:20 主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し
34:21 骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる。
34:22 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い 主に従う人を憎む者は罪に定められる。
34:23 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。

ローマ 13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

カナン侵攻の戦いを終えたルベンとガドの人々、およびマナセの半部族の人たちは、他の部族から離れた土地に住むこととなったため、イスラエルから切り離されてしまわないため、同じ神を礼拝する目的で祭壇を築こうとしたようである。
しかし、他の部族の者たちは、他の神々を礼拝するための祭壇であると言って、ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族の人たちを責め立てている。
つい先日まで自分たちのために共に戦ってくれた仲間であるにも関わらず、ひとたび距離を置いてしまうと人はこのように疑心暗鬼になるものなのだ。
離れていても、心がつながっていれば何も問題はないはずなのに、人はひとたび疑い始めると、もう後戻りできないほどに妬み、憎み、そして争いへと突き進んでしまうのだ。
本当は、もっと腹を割って話し合えば、すぐに誤解も解けることなのに、距離が離れてしまうだけで、これほどに関係にひびが入ってしまうのである。

今の時代も、人と人が顔を合わせて会う事もできず、多くのコミュニケーションがオンラインを駆使したものと変わりつつある。
きっと、多くのところで人間関係に徐々にひずみが生じていることと思う。
顔を突き合わせて語り合い、共に祈りあえればまた違うのだろうけれども、今の状況を思えば、仕方のないことかもしれない。
けれど「たられば」の話ばかりしていても仕方がないし、時は過去には戻らないのなら、直接会って交わることができないのなら、より相手のことを信頼することに努めていくしかないのだろう。
人を信頼することに、ほんとうは距離は関係ないはずである。
顔が見えないことも問題ではない。
イエス様のお顔を私たちは知らないけれど、信じることはできる。
なぜなら、イエス様はいつでも真実であり、慈しみ深いお方だから。

今の時代にあった仕方で、どう人と人の心の距離を血締めて行くことができるかどうか、一つ一つの言葉を丁寧に用いて行くことを大切にしていきたい。
夜の時代には夜の時代の、昼の時代には昼の時代にあった生き方というものがあるはずだから、時を見定めながら、今できることを、今なすべきことを丁寧に歩んでいきたいものである。

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