サムエル記上 28:20 サウルはたちまち地面に倒れ伏してしまった。サムエルの言葉におびえたからである。また彼はこの日、何も食べていなかったため、力が尽きていたのである。
28:21 その女はサウルに近づき、サウルがおびえきっているのを見て、言った。「はしためはあなたの声に聞き従いました。命をかけて、あなたが言った言葉に聞き従ったのです。
28:22 今度は、あなたがはしための声に聞き従ってください。ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がり、力をつけてお帰りください。」
28:23 サウルは拒み、食べたくないと言った。しかし、家臣もその女も強く勧めたので、彼らの勧めに従い、地面から起き上がって、床の上に座った。
28:24 女の家には肥えた子牛がいたので急いで屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。
28:25 女が、サウルと家臣にそれを差し出すと、彼らは食べて、その夜のうちに立ち去った。

詩篇 34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
34:3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
34:4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
34:5 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
34:6 主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
34:7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
34:8 主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
34:9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

ローマ 15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

サムエル記上には、サウルが王としての地位を失ったにも関わらず、未練がましく王の地位にしがみつこうと、霊媒師に頼んでサムエルを呼び出し、サムエルの指示を仰ごうとしていたことが記されている。
しかし、王位から失脚し、完全に神からの祝福を失ったサウルは絶望し、食べ物さえのどを通らぬほど憔悴しきっていたのである。
サウルはかつて霊媒師らを迫害したにも関わらず、翻って自己保身のために霊媒師を利用したのであるが、霊媒師の女性は、サウルの惨めな姿を哀れに思い、食べ物を食べるように促している。
かつて自分たちを迫害した者に対し、普通なら冷たくあしらっても良さそうなものであるが、彼女はサウルに食べ物を与え、励まして送り出そうとしているのである。

一方、詩篇の箇所には、ダビデが次の王になることをサウルに妬まれ、命を狙われていたダビデが、アヒメレクのもとに逃げこみ、狂人を装ってまでしてなんとか生き延びようとした時のことが語られている。(サムエル記上21章参照)
ダビデは、次の王となるはずの人物であったが、狂人を装うといった惨めな姿をさらけ出してでも生き延びようとしたことは、どれほど屈辱的なことであったことであろう。
しかし、詩篇の言葉を見ると、どんなに屈辱的な状況の中にあっても、彼は神を見上げ、たとえ誰も助けてくれる人がいなかかったとしても、神が助けて下さるということを信じ、祈り、力を得ていた、ということが伺えるのである。

サウルやダビデに限らず、どんな人でも、自分の人生に行き詰りを感じ、先が見えず、絶望してしまうようなことはあるだろう。
そんな時、何もかも投げやりになり、死を待つほかないような生き方をするのか、それとも、どんなに惨めな思いを強いられても、それでも生き抜いていこうとするのかによって、その先が有るか無いか、全く違ってくる。
もっとも、サウルも絶望し、生きる望みも失ってはいたが、結局、霊媒師の女性の勧めで食事をして立ち去っている。
どんな人にも、どんな状況にも、少なからず助けてくれる人はいる。
その助け手をないがしろにせず、惨めでも、恥ずかしくても、そういう時には甘んじよう。
生きていれば、きっとなんとかなる。
むしろ、そこにある小さな助け手にこそ、主な神の大きな恵みの御業が隠されているのかもしれない。
惨めでも、カッコ悪くても、恥ずかしくても、周りにいる助け手のサポートを感謝して受け、救っていただこう。

イザヤ 53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

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