出エジプト 12:43 主はモーセとアロンに言われた。「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。
12:44 ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。
12:45 滞在している者や雇い人は食べることができない。
12:46 一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。
12:47 イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない。
12:48 もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。
12:49 この規定は、その土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。」
12:50 イスラエルの人々はすべて、主がモーセとアロンに命じたとおりに行った。
12:51 まさにこの日に、主はイスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出された。
13:1 主はモーセに仰せになった。
13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」
詩篇 78:23 それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き
78:24 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり
78:25 人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。
78:26 神は東風を天から送り 御力をもって南風を起こし
78:27 彼らの上に肉を塵のように降らせ 翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ
78:28 彼らの陣営の中に 宿る所の周りに落としてくださった。
78:29 彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。
1コリント 11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
教会で行われる聖餐式について、洗礼を受けていないクリスチャンの方が受けられないのは不公平であり、疎外感を感じると言われることがある。
聖餐式は、確かに洗礼を受けたクリスチャンに対して行われるものだが、聖餐を受けるためには洗礼を受けなければならない、というのではなく、洗礼を受けたから聖餐にもあずかるというのが正しい捉え方であろう。
しかも、ただ単純に洗礼を受けているかどうかだけで区別されるということでもない。
洗礼の本質的な意味が理解されていることが重要であり、自分の罪の身代わりとして、救い主イエス様が十字架で死んで下さったことを信じる信仰が重要なのである。
だから、コリントの手紙において「ふさわしくないままで…」というのも、洗礼を受けたクリスチャンだからといって、漫然と聖餐に与っているようでは、それもふさわしくないものと変わりはない。
洗礼を受けたクリスチャンであろうと、その都度、きちんと自分の罪と向き合い、本来なら裁かれてしかるべき自分の姿と向き合い、悔い改めて、イエス様が自分の身代わりとなって死んで下さったことを主の御前に正しく受け止めていることがなされなければならない。
洗礼も聖餐も、イエス様と自分との関係が正しくしっかりとわきまえられている事が必要である。
己の罪の深い悔い改めと赦しの意味をないがしろにしたまま、洗礼を受けたり、聖餐にあずかっても無意味であるし、まずはイエス様の十字架が、この私のためであったということをしっかりと認識し、イエス様の贖いによって罪赦され、救われるという聖書の約束に信頼し、主が備えて下さった恵みの礼典に臨みたいものである。