出エジプト 12:33 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。
12:34 民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。
12:35 イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。
12:36 主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。
12:37 イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。
12:38 そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。
12:39 彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。
12:40 イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。
12:41 四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。
12:42 その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。
詩篇 78:23 それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き
78:24 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり
78:25 人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。
78:26 神は東風を天から送り 御力をもって南風を起こし
78:27 彼らの上に肉を塵のように降らせ 翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ
78:28 彼らの陣営の中に 宿る所の周りに落としてくださった。
78:29 彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。
1コリント 11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
コリントの教会に集う人たちの中にも、経済的な格差があり、豊かな人と貧しい人とが共に集っていたようである。
豊かな人と貧しい人がいることは仕方がないことなのかもしれないが、豊かな人たちが貧しい人たちのことを配慮せず、自分たちだけが自分たちの持ち寄った食物を食べて満腹し、貧しい人たちは空腹のままといった寂しい光景が見られたということである。
初代教会では、全ての財産を共有するようなことも行われていたようであるが、それはあくまで教会の働きを支えるためであろう。
それぞれに自分の家や仕事もあったであろうから、全てを共有していたわけではないのだろう。
しかも、コリントのように経済的に豊かな町に暮らしていた人たちにとっては、文字通り全財産を共有するなどということは不可能であったであろうし、馬鹿げたことと思われていたのかもしれない。
そのため、コリントの町の教会では、教会の働きのために捧げることも、ある面、形骸化していたのかもしれない。
「いちおう10分の1を捧げているからこれで十分だろう」とか「私たちは彼らに比べたら十分多くを捧げているに」といったように、特に豊かな人たちの間で驕りのようなものがあったかもしれない。
そして、いつの間にか、自分たちが教会を支えていると思い上がったり、この教会は自分たちのものみたいな思いになってしまうこともあったかもしれない。
そういった驕りが、貧しい人たちへの態度になって現れているのであろう。
教会はキリストのものである。
キリストの十字架の御業による贖いの代価によって買い取られたものの集いである。
だから、そこには、キリストの御心が優先されるべきであるし、キリストの思いが反映されていくべきであろう。
もちろん、逆に貧しい人たちが好き勝手にするのも同じことなので、誰であろうと、自分勝手な思いで身勝手な行動を取ることは慎むべきであろう。
大切なことは、お互いが神に愛され、神に贖われ、神に救っていただいたもの同士、互いを尊重し、愛し、仕えて行くことであろう。
どう振舞うべきかといった細かいことよりも、まずは愛と配慮の心を持って、互いを尊重し、共に歩んで行きたいものである。
それがイエス様の私たちに対する思いでもあるから。