アモス 4:6 だから、わたしもお前たちのすべての町で 歯を清く保たせ どの居住地でもパンを欠乏させた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと 主は言われる。
4:7 また、刈り入れにはまだ三月もあったのに わたしはお前たちに雨を拒んだ。ある町には雨を降らせ ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが 雨のない畑は枯れてしまった。
4:8 二つ三つの町が水を飲むために 一つの町によろめいて行ったが 渇きはいやされなかった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと 主は言われる。
4:9 わたしはお前たちを黒穂病と赤さび病で撃ち お前たちの園とぶどう畑を枯れさせた。また、いちじくとオリーブの木は いなごが食い荒らした。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと 主は言われる。
4:10 かつて、エジプトを襲った疫病を わたしはお前たちに送り お前たちのえり抜きの兵士と 誇りとする軍馬とを剣で殺した。わたしは陣営に悪臭を立ち上らせ 鼻をつかせた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと 主は言われる。
4:11 かつて、神がソドムとゴモラを覆したように わたしはお前たちを覆した。お前たちは炎の中から取り出された 燃えさしのようになった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと 主は言われる。
4:12 それゆえ、イスラエルよ わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに イスラエルよ お前は自分の神と出会う備えをせよ。
4:13 見よ、神は山々を造り 風を創造し その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし 地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。
詩篇 85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
85:10 主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
85:11 慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし
85:12 まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。
85:13 主は必ず良いものをお与えになり わたしたちの地は実りをもたらします。
85:14 正義は御前を行き 主の進まれる道を備えます。
ルカ 1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
1:65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
1:80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
ヨハネが生まれた時、ヨハネの父、祭司ザカリアは預言をし、ヨハネが救い主の到来を告げる預言者としての働きを担うであろうことを語っている。
もちろんそれは、ザカリアにとって喜ばしいことであったであろうけれども、それよりも嬉しいことは、そのあとから来られる救い主の到来についてであり、先祖伝来、聖書の預言者らを通して語られていた救い主が来られることにあったと言えるだろう。
もちろん、自分の子どもが救い主の到来を告げる預言者として召されたという事実も光栄なことではあったが、救い主の到来の道備えをするためには、罪の悔い改めを説く必要があることも分かっていたであろうし、それによって、民の間からは多少なりとも反発を受けるであろうことも分かっていたはずである。
預言者として召されることは光栄な事であるが、父親としては、自分の息子が厳しい道を歩み、人々から反発を受けることもあるであろうことは、心を痛めるところもあったに違いない。
それでも、イスラエルの民を救う神のご計画があらわされていくのなら、そのために自分の息子が用いられるのなら、祭司としても幸いなことであっただろう。
親として自分の子どもを心配する気持ちと、神の栄光の救いの御業によって救われる人が起こされることは、互いに相いれないように見えて、どちらも根本ではつながっている。
人を想う気持ち、大切なものを守りたいという気持ち、それらは神の愛から出ているものなのであろう。
1ヨハネ4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。