列王記上 10:26 ソロモンは戦車と騎兵を集め、戦車千四百、騎兵一万二千を保有した。彼はそれを戦車隊の町々およびエルサレムの王のもとに配置した。
10:27 王はエルサレムで銀を石のように、レバノン杉をシェフェラのいちじく桑のように大量に供給した。
10:28 ソロモンの馬はエジプトとクエから輸入された。王の商人は代価を払ってクエからそれを買い入れた。
10:29 エジプトから輸入された戦車は一両銀六百シェケル、馬は一頭百五十シェケルの値が付けられた。同じように、それらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。
11:1 ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。
11:2 これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。
11:3 彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。
11:4 ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。
11:5 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。
11:6 ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。
11:7 そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。
11:8 また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
詩篇 92:2 いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い
92:3 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
92:4 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。
92:5 主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。
92:13 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。
92:14 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。
92:15 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし
92:16 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。
ヘブル 11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
カインはアダムとエバの長男として生まれ、土を耕す者として、土から得た実りを神に捧げものとして持ってきた。
一方、弟のアベルは羊を飼う者となり、肥えた初子の羊を捧げものとして神に捧げている。
どちらの捧げものが神に喜ばれたかというと、アベルのものであったが、何を捧げたかが問題ではなかったようである。
どのような気持ちで捧げたのか、その心が問われていたのである。
詳しく記されていないが、カインは土を耕す者として、土から得られた実りを捧げているが、神とアダムとの契約の中で、土を耕すことは多くの苦しみを伴うことが語られており、多くの苦しみや、神へのつぶやきを続けてきたことであろう。
あるいは、この捧げものは、自分が苦労したおかげで得られたものとの驕りがあったのかもしれない。
そのような心持ちがカインの捧げものにはあらわれていたものと思われる。
もちろん、アベルの羊を飼う仕事も多くの困難も伴うだろうし、決して楽な仕事ではない。
けれども、彼が「肥えた初子を捧げた」ことから、神への感謝と喜びを表す捧げものとなっていることは目に見えて明らかである。
きっと彼は、全てが神からの恵みであることを感謝しつつ、日々の生活を歩んでいたことであろう。
神は人の心をご覧になる。
どんな捧げものが良いか悪いか、そういったことは問題ではない。
栄華を極めたソロモンでさえ、その心は遠く神から離れ、荒んでいたことであろう。
一見、この世に置いて成功しているように見えても、その心が神から遠ざかり、神への感謝も喜びもない人生は祝福されない。
逆に、どんなに貧しくても、何の働きも功績も無くても、その心が常に神と共にあり、神へ感謝や喜びにあふれている人は幸いである。
箱舟を造ったノアは、当時の人たちからは、一体何を馬鹿なことをしているのかと思われ、変わり者扱いされていたかもしれない。
けれど、彼は神の言葉を信じて生き、そして救われたのである。
何を、どう生きたかは、それほど問題ではない。
神を信じ、神に感謝し、喜んで生きているなら、どんな生き方をしていても良い。
ただ、神が常に私たちを愛し、恵みを与えて下さるお方であるということを覚えていたい。
独り子を給うほどに私たちを愛して下さった主なる神に感謝。