民数記 8:5 主はモーセに仰せになった。
8:6 イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい。
8:7 彼らを清めるにはこうする。彼らに罪の清めの水を振りかけ、体全体の毛をそらせ、衣服を水洗いさせると、彼らは清められる。
8:8 次に、彼らに若い雄牛一頭、その穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉、贖罪の献げ物としてもう一頭の若い雄牛を用意させ、
8:9 レビ人を臨在の幕屋の前に進ませ、次いで、イスラエルの人々の共同体全体を呼び集める。
8:10 そして、レビ人を主の御前に進ませ、イスラエルの人々はレビ人の上に手を置く。
8:11 次に、アロンはイスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする。
8:12 レビ人は雄牛の頭に手を置く。アロンは、一頭を贖罪の献げ物として、他の一頭を焼き尽くす献げ物として主にささげて、レビ人のために罪を贖う儀式を行う。
8:13 あなたは、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し、
8:14 レビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人はわたしのものとなる。
8:15 その後初めて、レビ人は臨在の幕屋に入って、作業に従事する。あなたは彼らを清め、奉納物としなさい。
8:16 彼らはイスラエルの人々の中からわたしに属する者とされている。彼らは、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして、わたしが受け取った者である。
8:17 イスラエルの人々のうちに生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのものである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしは彼らを聖別して、わたしのものとした。
8:18 わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。
8:19 わたしはこのレビ人をイスラエルの人々の中から、アロンとその子らに属する者とした。それは、レビ人が臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行い、イスラエルの人々が聖所に近づいても、災いが彼らにふりかからないためである。
8:20 モーセとアロンとイスラエルの人々の共同体全体は、主がレビ人についてモーセに命じられたとおり、レビ人に対して行った。イスラエルの人々はそのように彼らに行った。
8:21 レビ人は汚れを清め、衣服を水洗いした。アロンは彼らを奉納物として主の御前に差し出し、清めのために罪を贖う儀式を行った。
8:22 その後初めて、レビ人は臨在の幕屋に入り、アロンとその子らのもとで、主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、イスラエルの人々のために作業に従事した。レビ人は彼らのためにそのようにした。

詩篇 115:1 わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって。
115:2 なぜ国々は言うのか 「彼らの神はどこにいる」と。
115:3 わたしたちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる。
115:4 国々の偶像は金銀にすぎず 人間の手が造ったもの。
115:5 口があっても話せず 目があっても見えない。
115:6 耳があっても聞こえず 鼻があってもかぐことができない。
115:7 手があってもつかめず 足があっても歩けず 喉があっても声を出せない。
115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は 皆、偶像と同じようになる。
115:9 イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
115:10 アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
115:11 主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
115:12 主よ、わたしたちを御心に留め 祝福してください。イスラエルの家を祝福し アロンの家を祝福してください。
115:13 主を畏れる人を祝福し 大きな人も小さな人も祝福してください。
115:14 主があなたたちの数を増してくださるように あなたたちの数を、そして子らの数を。
115:15 天地の造り主、主が あなたたちを祝福してくださるように。
115:16 天は主のもの、地は人への賜物。
115:17 主を賛美するのは死者ではない 沈黙の国へ去った人々ではない。
115:18 わたしたちこそ、主をたたえよう 今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。

テトス 1:1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
1:2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
1:3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――
1:4 信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。
1:5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。
1:6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。
1:7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、
1:8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、
1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。

テトスの手紙では、パウロがテトスに対し、残っている仕事を整理し、町ごとに長老を立てるためにテトスをクレタに残してきたということが語られている。
長老は、その町に集うクリスチャンたちを教え、導くため、人徳のある人物でなければならなかったであろうし、パウロの記した手紙の言葉にも、その様な事柄が明確に記されている。
6節から9節に書かれている事柄は、かなり高尚なことばかりであるし、長老に求められるこれらの要素を全て兼ね備えている人物というのは、そうそういないかもしれない。
そう考えると、長老の職務を引き受けようと思う人がしり込みしてしまうのも無理もないことであろう。
けれど、それよりも大切なことは、長老が何のために立てられるのか、その目的のほうが大切であり、長老のなすべき務めが果たされているのであれば、多少は求められる人物像に完全に合致していなかったとしても、そう大きな問題ではない。
パウロは自分が召された目的を「神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。」と語っており、それは使徒であろうが長老であろうが、あるいは一般の信徒であろうが同じことである。
つまり「長老」は、確かに大切な務めであるけれど、全ての信徒が同じ目的のために教会に集い、御言葉を聞き、そして、御言葉に生きるのである。
むしろ、宣教の務めを「長老」らだけの責任として「自分には責任はない」と言った態度をとることの方が問題なのであろう。
もちろん、誰もが長老のような務めを果たせるというわけでもないかもしれないが、同じ思い、同じ信仰、同じ目的を共有し、共に御言葉の宣教のために生きて行こうとするならば、会衆の中から誰が長老として立てられようとも、きっとその群れは健全に歩んでいけるのだろうと思う。

マタイ9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

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