ヨエル 2:1 シオンで角笛を吹き わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
2:2 それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が 山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく これから後も、代々再び起こることはない。
2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。
2:14 あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。
2:15 シオンで角笛を吹き 断食を布告し、聖会を召集せよ。
2:16 民を呼び集め、会衆を聖別し 長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め 花婿を控えの間から 花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
2:17 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き 主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず 国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』と なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」
詩篇 51:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。
マタイ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
灰の水曜日とは、己の罪を悔い改めて懺悔をする日であろう。
罪を悔い改めるということは、自分自身の思いや行いを否定することにもつながるため、そう簡単ではないし、やすやすと人前で話せるようなものでもないだろう。
本当に辛いことは、神の御前だけでしか告白することはできない。
でも、それで良いし、それこそが本当の悔い改めなのだろうと思う。
ルターは、免罪符を購入する人たちに対し、人に見せるための悔い改めであると言って厳しく戒め、そこから宗教改革は進んで行った。
今風に言えば「やってる感」を表すだけで、実際には無益なことであるし、むしろキリストの十字架の贖いによって救われるという聖書の恵みを無にする行為に他ならず、忌まわしいものと考えたのである。
己の罪を悔い改めることは、己の死を意味するものであり、そこに十字架のキリストがおられるからこそ、神の救いの恵みは尊いのである。
人に見せるための善行が無意味であるのと同様、人に見せるための悔い改めも無意味であり、むしろ好ましいことではないのだろう。
奥まった部屋で、一人静かに神の前に立ち、己の罪の全てを神に申し述べ、キリストの十字架にある赦しの約束を頂こう。
そこにこそ本当の平安と慰めがあるのだから。