列王記上 16:1 バシャに対する主の言葉がハナニの子イエフに臨んだ。
16:2 「わたしはあなたを塵の中から引き上げて、わが民イスラエルの指導者としたが、あなたはヤロブアムと同じ道を歩み、わが民イスラエルに罪を犯させ、彼らの罪によってわたしを怒らせた。
16:3 それゆえ、今わたしはバシャとその家を一掃し、あなたの家もネバトの子ヤロブアムの家と同様にする。
16:4 バシャに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。」
16:5 バシャの他の事績、彼の行った事、その功績は、『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。
16:6 バシャは先祖と共に眠りにつき、ティルツァに葬られた。その子エラがバシャに代わって王となった。
16:7 またハナニの子、預言者イエフによって主の言葉がバシャとその家に臨んだ。それはバシャが、その手の業によって主を怒らせ、ヤロブアムの家に倣って、主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主の怒りを招いたためであり、またヤロブアムを討ったためである。
詩篇 50:1 賛歌。アサフの詩。 神々の神、主は、御言葉を発し 日の出るところから日の入るところまで 地を呼び集められる。
50:2 麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
50:3 わたしたちの神は来られる 黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き 御もとには嵐が吹き荒れている。
50:4 神は御自分の民を裁くために 上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
50:5 「わたしの前に集めよ わたしの慈しみに生きる者を いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
50:6 天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。
ルカ 19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
ここ数日、ニュースなどで「わきまえる」と言う言葉が注目されているが、「わきまえる」とは、時と場合に応じて、その時々にふさわしい言動を選択していくことであろう。
単に「静かにしていればよい」と言うようなものでもない。
時には状況に応じ、適切な行動を取る必要もあるだろう。
イエス様が語っている「エルサレム」とは、町のことというより、そこに住む人たちのことであろう。
そして、エルサレムの神殿があることに安住して、滅びへと真っすぐに突き進んでいることに気が付いていない人たちに対して、警告を述べているのだろう。
もちろんそれは、当時のイスラエルの人たちに限った話ではないだろう。
何時の時代でも、本当に価値ある事、幸いな事、平安なことなどには見向きもせず、人は虚栄と欲望に溺れていく。
その先には滅びしかないのに、真実が見えていないのである。
「わきまえる」ということは、真実が見えていて、それに従って生きて行くこと。
十字架と復活の主イエス様を見上げ、救われた人として、何が大切なことで、何がそうではないのかといったことを「わきまえた」人生を歩んでいきたいものである。