箴言 12:10 神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情すら残酷だ。
12:11 自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。意志の弱い者は空を追う。
12:12 神に逆らう貪欲は、悪人らを捕える網となる。神に従う人の根は実りを与える。
12:13 悪人は唇の罪の罠にかかる。神に従う人は苦難から逃れ出る。
12:14 口の言葉が結ぶ実によって 人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。
12:15 無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。
12:16 無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している。
12:17 忠実に発言する人は正しいことを述べ うそをつく証人は裏切る。
12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。
12:19 真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬。
12:20 悪を耕す者の心には裏切りがある。平和を勧める人の心には喜びがある。
12:21 神に従う人はどのような災難にも遭わない。神に逆らう者は災いで満たされる。

詩篇 147:1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか。
147:2 主はエルサレムを再建し イスラエルのラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
147:3 打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。
147:4 主は星に数を定め それぞれに呼び名をお与えになる。
147:5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く 英知の御業は数知れない。
147:6 主は貧しい人々を励まし 逆らう者を地に倒される。
147:7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。
147:8 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。
147:9 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。
147:10 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。
147:11 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。
147:20 どの国に対しても このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。

ガラテヤ 5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

ガラテヤのクリスチャンたちの中に、かつてのユダヤのしきたりに従い、異邦人も割礼を受けるべきと考える人たちもいたのであろう。
しかしパウロは、割礼を受けることによって救われようとする者は、割礼だけでなく全ての律法の規定を守るべきであり、それはもはやキリストを日露落とせず、自分自身の力や行いによって救いを達成しようとするものであることを説いている。
もちろん、自分の力だけで救いを達成できるわけはない。
キリストの十字架の贖いがなければ、人は誰も救いに与ることはできない。
だから、割礼の有無は問題ではない、愛の実践を伴う信仰こそが大切であると語っている。
ここで、愛の実践を伴う信仰というのも、そこに人間の力や行動に頼る部分があるのではないかと思う人もいるかもしれない。
けれど、愛とは無償の恵みであり、そもそも人間のうちに無かったもので、神が与えて下さるものと言えよう。
つまり、愛とは、神から与えられたものを、そのまま他者に与えていくものであり、自分の内から絞り出し、自分の救いのために行う義の業とは、出発点も方向性も全く異なるものと言えるのだろう。
もし「愛」の業を行うことで、自分を善い人と見せたいといった気持ちがあるのなら、それはもはや「愛」ではなく「偽善」である。
「愛」とは、無理をして行うようなものでもない。
神から与えられた恵み、それをそのまま他の人へ与えていく、それが愛の基本的な形と言えるだろう。

1ヨハネ 4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

神は私たちを愛し、救い主として御子イエス様を送って下さり、十字架において、救いを成し遂げて下さった。
このイエス様のことを知ることによって人は救われるのなら、イエス様のことをお伝えしていくことこそが私たちにできる最高の愛ではないだろうか。
私の内には何もないけれど、イエス様のうちには全てがある。
そのことを覚えながら、イエス様のことをお伝えしていくことに専心していきたいものである。

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