創世記 45:25 兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、
45:26 直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。
45:27 彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。
45:28 イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」
46:1 イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。
46:2 その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
46:3 神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。
46:4 わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」
46:5 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。
46:6 ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。
46:7 こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。
詩篇 46:1 指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
46:9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
使徒 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
5:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
ファリサイ派のガマリエルは、以前テウダやユダという人が群衆を扇動し、多くの者が彼らに従っていったことがあったが、やがてみな愛想をつかしてちりじりになって行った事を紹介し、使徒たちの宣教が人間的な思いから出たものならば、やがて消えていくだろうと考え、彼らをそのままにしておくように勧めている。
ともすると、人は自分の考えと会わない人に対し、すぐに否定したり、反発をしたり、時に攻撃したりもしてしまうのであるが、それが真実に基づかないものであるならば、放って置けば、やがてすたれれてしまうであろうし、真実なものであるならば、そちらの考えを否定するほうが間違っていることになる。
だから、ガマリエルの言っていることは、とても有益なことであるし、真実かどうか見極める時間というのも必要なのであろう。
真実を見極める目を養って行くことは大切である。
もっとも、常に疑いの目で他者をみていてばかりでもいけないけれど、愛と配慮の中で、真実かどうか見極めるために見守っていくことのできる心の広さも備えておきたいもんどえある。