ハバクク 3:2 主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ 数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。
3:3 神はテマンから 聖なる方はパランの山から来られる。 その威厳は天を覆い 威光は地に満ちる。
3:4 威光の輝きは日の光のようであり そのきらめきは御手から射し出でる。御力はその中に隠されている。
3:5 疫病は御前に行き 熱病は御足に従う。
3:6 主は立って、大地を測り 見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ 永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。

詩篇 126:1  都に上る歌。 主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう 「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

フィリピ 3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

他者を批判する人は、「~べき」とか「~でなければならない」といった表現を使いがちである。
そこには、自分はそれらのことを行っているし、できていると思っており、そのレベルに達していない人やできていない人も、自分たちと同じレベルになるように促そうとする心理が働いているからであろう。
「~べき」とか「~ねばならない」と言った考え方は、律法であるが、律法は、それが必ずできるようになるから語られている、というより、できないことを悟り、キリストの救いに頼るしかないことを知るためにある。
律法が語られれば、全ての人が福音の言葉を必要とする。
ちなみに「~べき」とか「~ねばならない」といった表現を多用する人は、あたかも神様がそう命じられていると言っているように語りつつ、実際にはその人自身が他者に対して命じているのかもしれない。
もし本当にそれが神の言葉であるのなら、人はそうやすやすと律法の言葉を口にはできないはずだからである。
今自分が語ろうとしている言葉が本当に神の言葉であるならば、人はその言葉の前に、まず自分自身が徹底的に打ちのめされる。
そして、それ故に、キリストの赦しの言葉が必要であることを知る。
そこでは、もはや他人のことに構っていられる余裕などないほどであろう。
そんな真剣な取り組みを、聖書の御言葉をきくことを通して経験しているだろうか。

涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

神の御言葉の前に、泣き笑いする私がいる、それで良いのだろう。

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