民数記 5:5 主はモーセに仰せになった。
5:6 イスラエルの人々にこう言いなさい。男であれ、女であれ、何か人が罪を犯すことによって、主を欺き、その人が責めを負うならば、
5:7 犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに五分の一を追加して損害を受けた人に支払う。
5:8 その賠償を継ぐべき近親がいない場合、その賠償は主のものとなり、祭司が受け取る。このほかに、祭司はその人のために罪の贖いの儀式をする贖罪の雄羊を受け取る。
5:9 同様に、イスラエルの人々が聖なる献げ物として祭司のもとに携えて来る礼物は、すべて祭司のものとなる。
5:10 人がそれぞれ、携えて来る聖なる献げ物は祭司のものとなり、人が祭司に与える物はみな祭司のものとなる。

詩篇 1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

テトス 1:5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。
1:6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。
1:7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、
1:8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、
1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。
1:11 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。
1:12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、
1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。
1:15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
1:16 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。

最近、自分が本当にこの仕事を担ってきて良かったのだろうかと思う事がある。
その理由は、周囲の方々から期待される姿に自分が全く追いついていないから、である。
若い頃はそれほど気にも留めなかったが、年を重ねるにつれて、年々そういう思いは強くなっているように思う。
自分としては、ただ、自分が出会う人に聖書の言葉を通して慰められて欲しいと願ってきただけで、自分自身がどう思われるかといったことは関係のないものだと思っていた。
しかし、現実はそう甘くはない。
語る者がまず実践していなければ、まるで説得力がない、ということなのかもしれない。
愛を説くなら、まずお手本を示せ、といったことも言われることもある。
しかし、大切なことは、どれだけ御言葉を教えることができるかどうかよりも、自分自身も御言葉を受け止め、味わっているかということではないだろうか。
それこそが本当の意味での御言葉の実践と言えるのだろうと思う。

そういった観点で、自分は果たして本当に御言葉を味わっているのだろうかと考えてみる。
平安はある。
慰めもある。
それだけである。

自分には何も良いところもないし、力もない。
ただ、神に愛され、赦されているという確信はある。
それだけである。
今はそこに立って生きていくだけである。

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