イザヤ 22:8 その日には、お前たちは 森の家の武器に目を向けた。
22:9 また、ダビデの町に破れの多いのを見て 下の池の水を集めた。
22:10 エルサレムの家を数え 家々を倒して、城壁の破れをふさごうとした。
22:11 二つの城壁の間に水溜めを造り 古い池の水を入れた。しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず 遠い昔に都を形づくられた方を 見ようとしなかった。
22:12 その日には、万軍の主なる神が布告された。嘆くこと、泣くこと 髪をそり、粗布をまとうことを。
22:13 しかし、見よ、彼らは喜び祝い 牛を殺し、羊を屠り 肉を食らい、酒を飲んで言った。「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と。
22:14 万軍の主はわたしの耳に告げられた。「お前たちが死ぬまで この罪は決して赦されることがない」と 万軍の主なる神が言われた。

詩篇 23:1  賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

ヤコブ 4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。
4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、
4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。
4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

世を愛する人は、この世の富や楽しみ、快楽などを追い求め、結果として、戦わなくてもよい戦いを必死で戦おうとしているのかもしれない。
生きることの意味や目的を見間違うと、こうも世の中は酷い者かと投げ槍になってしまうこともある。
多くの事柄に一喜一憂し、翻弄されながら、大切なことを見失っているように思う。
しかし、本当に幸いである人生とはどういうことなのかと考えながら、自分では重要だと思っていたことを一つ一つ冷静に目を向けてみると、案外どうでもよいことにこだわっている自分がいることに気が付くのではないだろうか。
生きていくために必要なこと、食べるものがあり、着るものがあり、住む家があり、家族や親しい友人たちがいて、それ以上、何を必要とするのだろうか。

ルカ10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

自分の思い、願い、考え、行動、いろんなことを静かに振り返ってみて、本当に大切なこと、幸いなことを見極めながら歩んでいきたいものである。

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