エゼキエル 19:10 お前の母は水のほとりに植えられた 園のぶどうの木のようだ。多くの水のゆえに 豊かに実を結ぶ枝を張った。
19:11 その木には 支配者たちの杖となる強い枝があった。丈は雲間に届くほど高くなり 丈高く、枝が多いゆえに際立って見えた。
19:12 怒りによって、木は引き抜かれ 地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし 強い枝はもぎ取られて枯れ 火がそれを焼き尽くした。
19:13 今や、その木は 荒れ野に、乾いた水なき地に 移し植えられた。
19:14 また、若枝の茂る太い枝から 火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には 支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。
詩篇 144:1 ダビデの詩。 主をたたえよ、わたしの岩を わたしの手に闘うすべを 指に戦するすべを教えてくださる方を
144:2 わたしの支え、わたしの砦、砦の塔 わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ 諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。
144:3 主よ、人間とは何ものなのでしょう あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう あなたが思いやってくださるとは。
144:4 人間は息にも似たもの 彼の日々は消え去る影。
144:5 主よ、天を傾けて降り 山々に触れ、これに煙を上げさせてください。
144:6 飛び交う稲妻 うなりを上げる矢を放ってください。
144:7 高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち 大水から、異邦人の手から助け出してください。
144:8 彼らの口はむなしいことを語り 彼らの右の手は欺きを行う右の手です。
144:9 神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい 十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。
144:10 あなたは王たちを救い 僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。
144:11 わたしを解き放ち 異邦人の手から助け出してください。彼らの口はむなしいことを語り 彼らの右の手は欺きを行う右の手です。
144:12 わたしたちの息子は皆 幼いときから大事に育てられた苗木。娘は皆、宮殿の飾りにも似た 色とりどりの彫り物。
144:13 わたしたちの倉は さまざまな穀物で満たされている。羊の群れは野に、幾千幾万を数え
144:14 牛はすべて、肥えている。わたしたちの都の広場には 破れも捕囚も叫び声もない。
144:15 いかに幸いなことか、このような民は。いかに幸いなことか 主を神といただく民は。
1ペテロ 2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、
2:8 また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
昨日の聖書日課の箇所でも触れられていたが、イエス様は神の国を建て上げていくはずのイスラエルの民に退けられ、ついに十字架にかけられて殺されてしまったが、それによって全ての民の救いの御業が成し遂げられ、イエス様を信じる者に、この救いの約束がもたらされていくことになった。
まさに「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」との御言葉の通りでる。
ペテロは、そのことに関連し「あなたがた自身も生きた石として、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と語り、私たち一人一人も神の国の一部として建て上げられていくように勧められている。
もちろん、我々はイエス様と同じ隅の親石というわけではないかもしれないが、同じ「石」という言葉が用いられていることを覚えたい。
イエス様と同じように、四隅の土台のような働きではないにしても、床や壁の一部などのように、家を建て上げるために必要な要素として、我々もまた、イエス様と同じように、自らを捧げ、他者の救いのために協力していくといったことが大切なのだろうと思う。
どのような部分であるかは別として、家の一部であるという時、その部分が取り立てて目立つ必要はない。
むしろ、目立たないことの方が多いかもしれない。
けれど、レンガ一つでもかけてしまえば、壁はそこから崩れてしまうだろう。
目立つか目立たないかは、家を建て上げる部材としては全く無意味であるし、むしろ、全てが重要である。
大切なことは、神の国(家)を建て上げるための基(親石)は、イエス様によって据えられ、もはや、我々にそれを担う必要はないことと、この親石の上に建て上げていくならば、その家は必ず確かな家となり、幸いな人生を送れるということであろう。
家というのは、見栄えがいいかどうかよりも、しっかりと建てあげられているかどうかが大切である。
今日一日も、自分に託された役割をしっかりと担い、キリストと共に結びわされた幸いな一日を過ごしていきたいものである。