エレミヤ 2:23 どうして、お前は言い張るのか わたしは汚れていない バアルの後を追ったことはない、と。見よ、谷でのお前のふるまいを 思ってみよ、何をしたのか。お前は、素早い雌のらくだのように 道をさまよい歩く。
2:24 また、荒れ野に慣れた雌ろばのように 息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。誰がその情欲を制しえよう。彼女に会いたければ、だれも苦労はしない。その月になれば、見つけ出せる。
2:25 素足になることを避け 喉が渇かぬようにせよ、と言われても お前は答えて言う。「いいえ、止めても無駄です。わたしは異国の男を慕い その後を追います」と。
2:26 盗人が捕らえられて辱めを受けるように イスラエルの家も辱めを受ける その王、高官、祭司、預言者らも共に。
2:27 彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い 石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向け しかも、災難に遭えば 「立ち上がって わたしたちをお救いください」と言う。
2:28 お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ 災難に遭ったお前を救いうるのならば。ユダよ、お前の神々は 町の数ほどあるではないか。
2:29 なぜ、わたしと争い わたしに背き続けるのか、と主は言われる。
2:30 わたしはお前たちの子らを打ったが 無駄であった。彼らは懲らしめを受け入れなかった。獅子が滅ぼし尽くすように お前たちは預言者を剣の餌食とした。
2:31 この世代の者よ、見よ、これは主の言葉だ。わたしはイスラエルにとって荒れ野なのか。深い闇の地なのか。どうして、わたしの民は言うのか。「迷い出てしまったからには あなたのもとには帰りません」と。
2:32 おとめがその身を飾るものを 花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れ 数えきれない月日が過ぎた。
2:33 なんと巧みにお前は情事を求めることか。悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ。
2:34 お前の着物の裾には 罪のない貧しい者を殺した血が染みついている。それは、盗みに押し入ったときに 付いたものではない。それにもかかわらず
2:35 「わたしには罪がない」とか 「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。だが、見よ。「わたしは罪を犯していない」と言うなら お前は裁きの座に引き出される。
2:36 なんと軽率にお前は道を変えるのか。アッシリアによって辱められたように エジプトにも辱められるであろう。
2:37 そこからも、お前は両手を頭に置いて出て来る。主はお前が頼りにしているものを退けられる。彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。

詩篇 80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。
80:17 それを切り、火に焼く者らは 御前に咎めを受けて滅ぼされますように。
80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり 御自分のために強められた 人の子の上にありますように。

フィリピ 2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

私たちはなぜ不平や不満を述べるのか。
それは、私たち自身が欲望や願望に支配されているからではないだろうか。
旧約聖書の時代、偶像の神々と言えば、バアルなどがあげられているが、これらの神々は、五穀豊穣をもたらす神々とされているが、もともとは人間の欲望を満たすために作り出されたものであり。
当然、そんなものに何の力もないし、単なる気休めでしかない。
偶像を追い求めたところで、偶像は人を救ってはくれないのである。
一方、キリストによる永遠の命の約束を頂いていることを知る者は、何ら自分の願い通りにならなかったとしても、救いの事実自体が変わることはないことを知っているため、多くの事を許容できるだろうし、忍耐もできる。
もちろん、限度はあるのだろうが、比較的に強く生きられるのだろう。
仮に、うち叩かれて、倒れてしまうようなことがあったとしても、それでもなお、救いの事実は変わらないのだから、それもまた御心として受け入れていける、そういう生き方こそが本当に「生きている」ということなのかもしれない。

2コリント12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

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