エレミヤ 2:14 イスラエルは奴隷なのか 家に生まれた僕であろうか。それなのに、どうして捕らわれの身になったのか。
2:15 若獅子が彼に向かってほえ うなり声をあげた。彼の地は荒れ地とされ 町々は焼き払われて 住む人もなくなった。
2:16 メンフィスとタフパンヘスの人々も あなたの頭をそり上げる。
2:17 あなたの神なる主が、旅路を導かれたとき あなたが主を捨てたので このことがあなたの身に及んだのではないか。
2:18 それなのに、今あなたはエジプトへ行って ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。
2:19 あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ あなたの背信が、あなたを責めている。あなたが、わたしを畏れず あなたの神である主を捨てたことが いかに悪く、苦いことであるかを 味わい知るがよいと 万軍の主なる神は言われる。
2:20 あなたは久しい昔に軛を折り 手綱を振り切って 「わたしは仕えることはしない」と言った。あなたは高い丘の上 緑の木の下と見ればどこにでも 身を横たえて遊女となる。
詩篇 80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。
コロサイ 2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
私たちの周りには、様々な誘惑や試練がある。
誘惑は、世の楽しみであったり、快楽であったり、一見したところ、自分にとって良いもののように思えるが、実がそうではなく、滅びへと引きずり降ろそうとするものが多い。
ただ、楽しいことが全て悪というわけではない。
人間が生きていくためには、楽しいことも必要である。
一方、試練はと言うと、その時々は苦しい思いや辛い経験をすることが多く、できる事なら避けたいものである。
しかし、場合によっては、試練によって鍛錬される場合もあり、成長していくために必要なケースもあり、一概に全てが悪とは言いきれないのかもしれない。
全てが全て悪いわけではないかもしれないが、基本的には、どちらも私たちを神から引き離そうとする力が働いていることには変わりないのだろう。
大切なことは、人間的な思いでこれらの事柄を捉えるのではなく、キリストにしっかりと結び合わされた者として向き合っていくことであろう。
誘惑や試練から完全に逃れることはできなくても、キリストにある救いの約束をしっかりと携えながら、様々な出来事に対し、必要以上に恐れることなく、踊らされることもなく、自分のなすべきわざを模索していけば良いのだろう。
仮に私たちがどう生きようとも、神の救いの約束は永遠に変わらないのだということを覚えながら、今日一日を歩んでいきたいものである。