士師記 16:23 ペリシテ人の領主たちは集まって、彼らの神ダゴンに盛大ないけにえをささげ、喜び祝って言った。「我々の神は敵サムソンを 我々の手に渡してくださった。」
16:24 その民もまたサムソンを見て、彼らの神をたたえて言った。「わが国を荒らし、数多くの同胞を殺した敵を 我々の神は、我々の手に渡してくださった。」
16:25 彼らは上機嫌になり、「サムソンを呼べ。見せ物にして楽しもう」と言い出した。こうしてサムソンは牢屋から呼び出され、笑いものにされた。柱の間に立たされたとき、
16:26 サムソンは彼の手をつかんでいた若者に、「わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい」と頼んだ。
16:27 建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。
16:28 サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」
16:29 それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。
16:30 そこでサムソンは、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。建物は領主たちだけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。
16:31 彼の兄弟たち、家族の者たちが皆、下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルの間にある父マノアの墓に運び、そこに葬った。彼は二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。

詩篇 28:1  ダビデの詩。 主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら わたしは墓に下る者とされてしまいます。
28:2 嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ あなたに救いを求めて叫びます。
28:3 神に逆らう者、悪を行う者と共に わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが 心には悪意を抱いています。
28:4 その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて 彼らに報い、罰してください。
28:5 主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください。
28:6 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
28:7 主はわたしの力、わたしの盾 わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。
28:8 主は油注がれた者の力、その砦、救い。
28:9 お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。

マタイ 9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

中風の人に向かって「あなたの罪は赦されました」と言うだけなら、それは一見、たやすいことのように見える。
見た目には何も変わらないからである。
けれど、本当は、罪を赦すことほど大変なことはない。
一方で、中風の人に「起きて歩け」と命じることは簡単ではない。
人はそう簡単に病を癒すことなどできないため、結果が目に見えて分かるからである。
我々は結果を見て、その人の言葉に力があるかどうかを判断しがちであるが、本当のところは、病を癒すことよりも罪を赦すことのほうが難しい。
イエス様はお言葉一つで中風の人を癒されたが、我々の罪を赦すためには、ご自分の命を捧げなければならなかった。
それほどに、人間の罪は頑強であり、どうにもならないほど壊滅的であった。
そのような我々の罪を赦すためにイエス様は十字架で死なれたのである。
私たちは、なかなか病が癒されないと嘆いたり、自分の置かれている環境が何も変わらないとつぶやいたりするが、ひょっとすると、そういったことはイエス様ならいくらでも変えられるこおができるのかもしれないが、問題なのは、それらに直面する中で嘆く我々の言動のほうが変わらないことなのかもしれない。
それほど、我々の罪は頑強なのだ。
そんなどうにもならない我々の罪のためにイエス様は死なれたのである。

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