エゼキエル 18:5 もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、
18:6 すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、
18:7 人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、
18:8 利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、
18:9 わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。
18:10 彼に生まれた息子が乱暴者で、これらの事の一つでも行う人の血を流し、
18:11 自分自身はこれらすべての事の一つですら行わず、かえって山の上で偶像の供え物を食べ、隣人の妻を犯し、
18:12 貧しい者、乏しい者を抑圧し、力ずくで奪い、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て忌まわしいことを行い、
18:13 利息を天引きして金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある。
18:14 ところで、その人にまた息子が生まれ、彼が父の行ったすべての過ちを見て省み、このような事を行わないなら、
18:15 すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、
18:16 人を抑圧せず、質物を取らず、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、
18:17 貧しい者の抑圧から手を引き、天引きの利息や高利を取らず、わたしの裁きを行い、わたしの掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。
18:18 彼の父は搾取を行い、兄弟のものを力ずくで奪い、自分の民の中で善くない事をしたので、自分の罪のゆえに死んだのである。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。

使徒 13:32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。
13:33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。
13:34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。
13:35 ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない』と言われています。
13:36 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。
13:37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
13:38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
13:40 それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
13:41 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

主なる神様は、イスラエルの歴史を通じて神の救いのご計画を語り継いでこられた。
時にはモーセ、時にはダビデといった預言者や王らの生涯をも用い、偉大な神の救いの御業について預言されてきたのである。
もちろん、モーセやダビデといった聖書に登場する人物らは、偉大な働きを担った人たちと言えるが、彼らも我々と同じ人間であり、時に失敗もしたし、罪深い者であることには変わりない。
しかし、イエス様は、彼らの失敗を取り返すために来られたわけではない。
イエス様は、モーセやダビデらを通して預言されていたお方として世に来られ、全ての人間の罪を贖うために十字架と復活の御業を通して救いの御業を実現されたのである。
それは、あらかじめ計画されていたことであったし、この世に生きる全ての人が神の御救いについて知るためであったということであろう。
人は、全ての事を一瞬でさとることはできない。
大切なことを学ぶためには、ある程度時間も必要である。
親は、子どもが成長し、知識を得るために長い時間を共に過ごすことになる、長い時間を共に過ごすことは愛そのものである。
神もいつでも我々と共にいて下さる。
永遠に共にいて下さる。
それほどまでに、私たちを愛していて下さる。
そのように考えながら聖書の時代の出来事に思いを巡らしていくのも悪くない。

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