創世記 41:53 エジプトの国に七年間の大豊作が終わると、
41:54 ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。
41:55 やがて、エジプト全国にも飢饉が広がり、民がファラオに食物を叫び求めた。ファラオはすべてのエジプト人に、「ヨセフのもとに行って、ヨセフの言うとおりにせよ」と命じた。
41:56 飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。
41:57 また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。
42:1 ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、「どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ」と言い、更に、
42:2 「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言った。
42:3 そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。
42:4 ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。
42:5 イスラエルの息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。カナン地方にも飢饉が襲っていたからである。
42:6 ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。
42:7 ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。彼らは答えた。「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」
42:8 ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。
42:9 ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。ヨセフは彼らに言った。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」
42:10 彼らは答えた。「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。
42:11 わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。」
42:12 しかしヨセフが、「いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たにちがいない」と言うと、
42:13 彼らは答えた。「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」
42:14 すると、ヨセフは言った。「お前たちは回し者だとわたしが言ったのは、そのことだ。
42:15 その点について、お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。
42:16 お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしそのとおりでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ。」
42:17 ヨセフは、こうして彼らを三日間、牢獄に監禁しておいた。
詩篇 103:8 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。
103:9 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。
103:10 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。
103:11 天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
103:12 東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
103:13 父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
使徒 7:9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
7:11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
7:12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
7:14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
7:15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
7:16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。
7:17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。
7:18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。
初代教会が成長するにつれ、人々のお世話をする必要が生じ、ステファノらがその務めを担う事となった。
ステファノは、とても優れた人物で、神の恵みと力に満ちて神の言葉を語っていたために、一部の人たちからねたまれることとなり、神とモーセを冒涜したといって偽りの証言によって最高法院に訴えられてしまうことになるのである。
使徒7章の言葉は、そのような中におけるステファノの証言であるが、彼は、臆することなく、聖書に忠実に言葉を紡いでいくのである。
旧約の時代に、神がヨセフを選び、イスラエルの民全体をエジプトに招くことで救ったことが語られているが、ステファノが彼らのことを「わたしたちの先祖」と表現していることも興味深い。
ヨセフの兄弟たちは、ヨセフを売り渡した者である。
本来なら、赦されるような資格など微塵もないはずである。
けれど、ヨセフは彼らを赦し、生かしたのである。
ステファノは、自分もその子孫の一人であると証しているのである。
先祖がこうして導かれ、赦され、救われたからこそ、今の我々があるのだ、ということを彼は証しているし、まるで自分たちもそこに一緒にいたかのように、歴史において起こった出来事を自分たちの赦しと救いの体験として語っているのである。
そんな捉え方をする者が、どうして神や先祖を冒涜するといったことになるのだろうか。
先祖はおろかであったが、自分は違う、というのではない。
自分も同じだと言っているのだ。
ステファノは、神や先祖を冒涜することなど何一つ語っていないし、なんら殺されるようなことはしていない。
ただし、優れた能力や誠実さなどに対し、周囲の者たちの妬みによって殺されたのである。
そんなことは本来、有り得ないこと、あってはならないことであろう。
けれど、時として世の中にはこういうことが起こるのである。
その最たるものはキリストの十字架であろう。
イエス様は、なんら死刑に値するような罪は犯していないし、ステファノと同じように、妬みによって殺されたようなものであろう
けれど、それが神の計画された救いの御業である。
本来ならば、あってはならないこと、有り得ないことが起こったのであり、それが神の恵み、不思議な御業なのである。
私たちも時に他者を妬むこともあるだろう。
そして、そんなことは本来あってはならないし、有り得ない事なのだが、神は、そのような愚かな罪を犯してしまった私たちをも赦し、お救い下さるのである。
イエス様の十字架を見上げた時、そのことが証されている。
きっと、ステファノも、そのような理不尽ともいえるような、本来なら絶対に赦されるはずのない罪が赦されるという神の驚くべき恵みを証しようとしていたのであろう。
ステファノの証を聞きながら、我々もまた、イスラエル同様、神の大いなる赦しと救いの体験をしていくのである。