エゼキエル 36:33 主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。
36:34 荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。
36:35 そのとき人々は、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃虚となった町々が、城壁のある人の住む町になった』と言う。
36:36 お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。主であるわたしが、これを語り、これを行う。
36:37 主なる神はこう言われる。わたしは、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。わたしは彼らの人口を羊の群れのように増やす。
36:38 祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」
詩篇 138:1 ダビデの詩。 わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。
138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。
138:3 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。
138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
138:5 主の道について彼らは歌うでしょう 主の大いなる栄光を。
138:6 主は高くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
138:8 主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。
マタイ 16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
ファリサイ派の人たちは、自分たちイスラエルだけが神に選ばれた特別な民であると考え、神から与えられた律法の言葉を順守することで救われると考えていた。
サドカイ派の人たちは、死者の復活や天使の存在などを否定し、現世的なことにのみ関心を持っていたため、この世の地上の王国が完成することが彼らの望みであったのだろう。
いずれも、聖書の言葉を受け入れているようで、その目的は自分の祝福のためである。
ファリサイ人たちは、自分こそ神の教えを守っている者と自負し、自分の救いのためだけに神の言葉を用いていたし、サドカイ人たちは、現世的なことによみ関心があるため、この世の富や権力などに執着していた。
イエス様は、そのような考え方の根っこにある自己中心や人間の欲望を追い求めるような生き方を戒められたのであろう。
神は人が互いに愛し合い、仕え合って生きていくように創られたし、そのために、人が生きていくための必要な糧も与えて下さる。
しかし、自己中心的な生き方や、欲望を追い求めるような生き方を続けていると、人本来のあり方を見失ってしまうし、その先は滅びしかない。
いや、すでに滅んでいると言えるのだろう。
そんな人間を主なる神様は憐れんで下さり、お救い下さったのである。
救って下さったということは、神が意図された本来の生き方に立ち返るということであろう。
救われたことで私たちを取り巻くこの世界が急に変わるわけではないかもしれないけれども、私たちのこの世界に対する見方、考え方、行動は違ってくるだろう。
救いとは、神が本来意図された人間性の回復、と言えるのかもしれない。
そして、救われた人が生きる世界こそが真のエデンと言えるのだろう。
自己中心的に、欲に支配された見方でこの世界を見るのはよそう。