イザヤ 43:8 引き出せ、目があっても、見えぬ民を 耳があっても、聞こえぬ民を。
43:9 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ 初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し 聞く者に、そのとおりだ、と 言わせうる者があろうか。
43:10 わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。
43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
43:12 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と 主は言われる。わたしは神
43:13 今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。
詩篇 67:1 指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。
67:2 神がわたしたちを憐れみ、祝福し 御顔の輝きを わたしたちに向けてくださいますように セラ
67:3 あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために。
67:4 神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって あなたに感謝をささげますように。
67:5 諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように あなたがすべての民を公平に裁き この地において諸国の民を導かれることを。 セラ
67:6 神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって あなたに感謝をささげますように。
67:7 大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が わたしたちを祝福してくださいますように。
67:8 神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで すべてのものが神を畏れ敬いますように。
ローマ 11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。
11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
イスラエルの民が神の救いのご計画を全世界に宣べ伝えるために選ばれたという事実は、どんなにイスラエルの民が神に背こうとも、否定することのできない事実である。
神がイスラエルの民をエジプトから導き出さなければ、彼らの子孫が現在に至るまで存在しえなかったし、彼らの存在自体が神の救いの御業を表わす生き証人であるともいえる。
それは、いくらキリスト教の中心が西欧諸国に移っていったとしても、変わることのない事実であろう。
歴史の事実は事実として受け入れ、その上で、我々は我々の立場から神を信じ、御言葉を受け入れていく、それがこの地上に生きる全ての者の取るべき姿勢なのだろう。
だれも誇ることはできないし、イスラエルと異邦人のどちらが神の御前で優位であるかといった議論はナンセンスである。
神は一人一人を愛しておられる。
イスラエル人も異邦人も、大人も子どもも、元気な人も弱っている人も、神の目には等しく高価な命である。
自分の周りでどんなことがお航路とも、神に愛され、慈しみのゆえに生かされている事実は変わらないし、神に生かされている幸いは、どんな命にも平等である。
なによりも、神の慈しみのゆえに生かされている幸いに心を留め、一日一日を感謝しながら歩んでいきたいものである。