イザヤ 51:17 目覚めよ、目覚めよ 立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み よろめかす大杯を飲み干した都よ。
51:18 彼女の産んだ子らは、だれも導き手とならず 育てた子らは、だれも彼女の手を取って支えない。
51:19 二組の災いがあなたを襲った。誰があなたのために嘆くであろうか。破壊と破滅、飢饉と剣。誰があなたを慰めるであろうか。
51:20 どの街角にもあなたの子らが力尽きて伏している 網にかかったかもしかのように。主の憤り、あなたの神のとがめに満たされて。
51:21 それゆえ、これを聞くがよい 酒によらずに酔い、苦しむ者よ。
51:22 あなたの主なる神 御自分の民の訴えを取り上げられる主は こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を あなたは再び飲むことはない。
51:23 あなたを責める者の手にわたしはそれを置く。彼らはあなたに言った。「ひれ伏せ、踏み越えて行くから」と。あなたは背中を地面のように、通りのようにして 踏み越える者にまかせた。

詩篇 145:8 主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
145:9 主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。

145:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている人を起こしてくださいます。
145:15 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたはときに応じて食べ物をくださいます。
145:16 すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます。
145:17 主の道はことごとく正しく 御業は慈しみを示しています。
145:18 主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
145:19 主を畏れる人々の望みをかなえ 叫びを聞いて救ってくださいます。
145:20 主を愛する人は主に守られ 主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
145:21 わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは 世々限りなく聖なる御名をたたえます。

ローマ 9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
9:9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。
9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。
9:11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

昨日は、教会でベテル聖書研究の学びが行われ、イスラエルの民が神に選ばれた事を特別な事として受け止めるようになり、選民意識として誤った方向へと進むきっかけとなっていったことを学んだ。
テキストでは、それを「夢」という言葉で表現しており、まさに、イスラエルの民が夢を追い求め、妄想に近い信仰形成を続けていってしまったことが解説されていた。
神の選び、エジプトからの救出、律法の言葉の授与、約束の地への入植、そしてダビデ王国の確立とエルサレム神殿の建設など、彼らの歴史において起こった事自体が、神に選ばれた民としての誇りや特権意識を養うことに用いられたのである。
確かにイスラエルの民は神に選ばれた。
しかしそれは、イスラエルの民が特別に優れた人たちであったからというわけではない。
むしろ、ごく普通の人たちであったのが、選民だからという意識を持つことによって、律法の言葉を忠実に後世に伝えるようになったのかもしれず、彼らが特別に忠実な人たちであったからというわけではないのかもしれないのである。
その証拠に、ダビデの王国やエルサレム神殿など、長くは続かなかったし、イスラエルの民の驕り高ぶりのゆえに、これらは全て破壊されていったのである。

このようなことは、現代の我々にも当てはまる事かもしれない。
クリスチャンは、忠実な者だったから召されたというわけではなく、召されたから神に従おうとしているだけなのかもしれない。
クリスチャンには真面目な人が多いと思われがちであるが、それは救われたことによる結果に過ぎず、そもそも罪人だから救いを求めて神を信じたのである。
救われるべき根拠は、我々のうちにあるのではない。
もしそのような驕り高ぶりを抱いているなら、神は即刻そのような誇りは打ち砕かれるであろう。
我々が救われたのは、神がご自分の御子イエス様の命を十字架に差し出されたからこそ成立したものである。
そして、そのイエス様を世に送られたことこそ、神の契約であり、イエス様こそが約束の子と言えるのである。
私たちは、そのような神の契約によって救われているのである。
ただ、その契約の前にひざまづき「アーメン」と信仰を告白するだけである。

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