ゼカリヤ 2:10 急いで、北の国から逃れよと 主は言われる。天の四方の風のように かつて、わたしはお前たちを吹き散らしたと 主は言われる。
2:11 シオンよ、逃げ去れ バビロンの娘となって住み着いた者よ。
2:12 栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主が あなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者は わたしの目の瞳に触れる者だ。
2:13 わたしは彼らに向かって手を振り上げ 彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを 遣わされたことを知るようになる。
2:14 娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て あなたのただ中に住まう、と主は言われる。
2:15 その日、多くの国々は主に帰依して わたしの民となり わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを あなたに遣わされたことを知るようになる。
2:16 主は聖なる地の領地として ユダを譲り受け エルサレムを再び選ばれる。
2:17 すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」
詩篇 145:8 主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
145:9 主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
145:10 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ
145:11 あなたの主権の栄光を告げ 力強い御業について語りますように。
145:12 その力強い御業と栄光を 主権の輝きを、人の子らに示しますように。
145:13 あなたの主権はとこしえの主権 あなたの統治は代々に。
145:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支えうずくまっている人を起こしてくださいます。
ローマ 7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
聖書には律法と呼ばれる戒めの言葉が記されている。
これらの言葉は、私たちに語られる時、誰もが心を深くえぐられるような気持ちになるだろう。
なぜなら、誰もが思い当たるような事柄に対し、臆することなく語りかけ、罪の意識を持たせる力を持っているからである。
つまり、非常に身近な言葉なのだ。
我々人間は、誰であろうと罪を犯している。
罪とは無縁に生きていける人などいない。
だから、誰であろうと、罪を指摘する言葉は、非常に身近な言葉として理解しうるのである。
自分とは関係のない事柄ならば、誰の心にも響かないはずである。
同様に聖書には福音の言葉もある。
福音とは、喜ばしい知らせという意味であるが、聖書においては、神の御子イエス様が、我々のような愚かな罪人を救うために、我々の身代わりとなって罪の償いのために十字架で死なれ、その事実を信じるだけで我々のものとなる、という救いの約束の言葉である。
もはや、自力で罪の清算をしなくてもいいし、しかも、イエス様を信じるだけで、この救いの約束を頂くことができるのである。
あまりにも有難すぎて、多くの人にはピンとこないのかもしれない。
もっと身近な方法のほうが理解しやすいのかもしれないが、実にイエス様こそ、もっとも身近な方法で私たちの救いを実現されたお方であると言える。
それは、神の子であられるお方が、私たちの全く同じ人間の姿でこの世界にお生まれ下さり、完全な人として歩まれたことである。
イエス様も、我々と全く同じ人間として歩まれ、我々人間と同じように悩み、苦しみ、悲しみ、そして痛まれた。
唯一、罪を犯すことだけはなされなかったが、すべての店で私たちと同じ人間として生きられたと聖書には語られている。
イエス様はそれほどに人間と身近なお方であり、それが本当の神ご自身のお姿である。
いつも我々と共に、我々の只中に住まわれるとの約束を覚え、感謝と平安のうちを歩んで行きたいものである。