エレミヤ 25:8 それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、
25:9 見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。
25:10 わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。
25:11 この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。
25:12 七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。
25:13 わたしは、この地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。
25:14 彼らもまた、多くの国々と強大な王たちに仕えるようになる。わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」

詩篇 89:2 主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に あなたのまことを告げ知らせます。
89:3 わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ あなたのまことがそこに立てられますように。」
89:4 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び わたしの僕ダビデに誓った
89:5 あなたの子孫をとこしえに立て あなたの王座を代々に備える、と。」

89:16 いかに幸いなことでしょう 勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。
89:17 絶えず、御名によって喜び躍り 恵みの御業にあずかって奮い立ちます。
89:18 あなたは彼らの力の輝きです。御旨によって、我らの角を高く上げてください。
89:19 主は我らの盾 イスラエルの聖なる方は我らの王。

ルカ 17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

人の世は、残念ながら、罪と悪が蔓延しており、誰もがその中で正義を求めながら苦労して生きている。
自分自身が罪を犯してしまうこともあるし、自分に対し他人から危害を加えられることもあるだろう。
そんな時、私たちは、ついつい自分に対しては甘く、他人に対しては厳しくなりがちである。
それゆえであろうか、イエス様の言葉は、他人の罪に対しては優しく振舞い、自分自身に対しては厳しく受け止めるように語られているように聞こえる。

つまづきをもたらすものは、石臼にかけられて海に投げ込まれてしまうほうがましである、というのは、本来なら、生かしておいてはいけないような罪人であるが、そんな罪人のために、身代わりとなってイエス様が十字架にかかって厳しい裁きを受けて下さったことを思い起こさせるための言葉であろう。
私たちは、それほどの罪人であり、同時に罪赦された者、である。
だから、私たちは、この言葉を受けて、罪赦された者としてどう生きるか、ということが問われているのである。

イエス様は、他人があなたに対して一日に七回も罪を犯しても、七回「悔い改めます」と言ってきたら、赦してあげるように勧めている。
七回も罪を犯してくるのなら、ひとつも悔い改めていないではないかと思えてしまう。
けれど、イエス様は、その人が何度過ちを犯そうが、悔い改めることと、それに対して赦しが与えられるべきであることを述べている。
私たちは、他人の罪に対しては厳しく裁きがちであるが、そもそも、石臼にかけられて海に投げ込まれた方がましというくらいの罪を赦された者である。
赦されて、生かされているだけでも奇跡であるのに、そんな「赦された者」が、他者に対して「私はあなたを赦せない」などと言える資格など、どこにあると言うのだろうか。
イエス様の目には、自分も他人もない。同じ人間である。
そんな人間に対し、イエス様は、ただ罪に対して処罰をするだけではなく、その人がきちんと罪を悔い改め、生きて行くようになることを願っておられる。
人間を滅ぼしたいのではなく、救いたいのであり、生かしたいのである。
だから、ただ単に罪や悪はダメという、冷たい義だけが存在するのではなく、なんとかしてこの人を生かしたいという思い、すなわち、愛の心がある、ということなのであろう。
そして、その愛の心を実現するために、イエス様は十字架で死なれた。
私たち全ての罪深い人間を救い、生かすために、私たちの身代わりとなって罪に対する処罰を引き受け、私たちには、完全なる赦しを与えられた。
だから、私たちは、キリストの愛の中で罪赦された者として生き、他者をも赦していく、そのような生き方へと導かれていきたいものである。

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