エレミヤ 18:18 彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」
18:19 主よ、わたしに耳を傾け わたしと争う者の声を聞いてください。
18:20 悪をもって善に報いてもよいでしょうか。彼らはわたしの命を奪おうとして 落とし穴を掘りました。御前にわたしが立ち、彼らをかばい あなたの怒りをなだめようとしたことを 御心に留めてください。
18:21 彼らの子らを飢饉に遭わせ 彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり 夫は殺戮され 若者は戦いで剣に打たれますように。
18:22 突然、彼らに一団の略奪者を 襲いかからせてください 彼らの家から叫ぶ声が聞こえるように。彼らはわたしを捕らえようと落とし穴を掘り 足もとに罠を仕掛けました。
18:23 主よ、あなたはご存じです わたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず 罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう 御怒りのときに彼らをあしらってください。

詩篇 69:8 わたしはあなたゆえに嘲られ 顔は屈辱に覆われています。
69:9 兄弟はわたしを失われた者とし 同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
69:10 あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。
69:11 わたしが断食して泣けば そうするからといって嘲られ

69:17 恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください 憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
69:18 あなたの僕に御顔を隠すことなく 苦しむわたしに急いで答えてください。
69:19 わたしの魂に近づき、贖い 敵から解放してください。

使徒 5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
5:18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
5:19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
5:20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
5:21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
5:22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。
5:23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
5:24 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。
5:25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。
5:26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。

預言者エレミヤは、イスラエルの民に対し、悔い改めを迫るような厳しい言葉を語っていたのであろう。
それを聞いたイスラエルの民は、自分たちにとって耳障りの悪い言葉を語るエレミヤを殺してしまおうと考えていたようである。
自分たちにとって耳障りの悪い悔い改めの言葉を聞かされたという事もあるかもしれないが、御言葉を語る預言者が自分たちと同じ人間だから、という側面もあるかもしれない。
エレミヤは、同胞イスラエルの民のとりなしと救いのために、あえて厳しい言葉も語っていたのであり、感謝されることはあっても、反感を買うようなことになるなど受け入れがたいことであったのであろう。

ところで、イスラエルの民がエレミヤを排斥しようとした時、「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい」と述べたことが記されている。
これは、エレミヤ一人殺したところで、他にも預言者はいるから、神の言葉は他の預言者から聞けばいいとの趣旨で語ったものあろうと思われる。
しかし、皮肉なことに、このことは、たとえ預言者の命を奪おうとも、どんな形でも神の言葉は語り続けられるということを「預言」するものとなっていると言えるのではないだろうか。
イスラエルの民が適当に言い放った言葉なのかもしれないが、たとえ預言者が打たれようとも、神の言葉が失われることはないのである。
その様な出来事の一つが、使徒5章の箇所でも起きていると言える。
使徒たちは、宣教させないようにと、牢獄に捕らえられていたが、夜中に主の天使が現れて、牢獄の鍵を開け、彼らを外に出し、再び御言葉を語る働きへと遣わしていったのである。

いつの時代でも、御言葉を語る者は、我々と同じ人間である。
それゆえに、迫害が起こることもありうるだろう。
けれども、どんなに御言葉を語る者を迫害しようとも、御言葉そのものは語り続けられていく。
なぜなら、御言葉を語るのは、その人を用いられる主ご自身だからである。

1ペテロ
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

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