エレミヤ 18:12 彼らは言った。「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。」
18:13 それゆえ、主はこう言われる。「国々に尋ねて見よ。誰がこのようなことを聞いたであろうか。おとめイスラエルはおぞましいことをした。
18:14 シャダイの岩壁から レバノンの雪が消え去るだろうか。遠くから流れる冷たい水が涸れることがあろうか。
18:15 しかし、わたしの民はわたしを忘れ むなしいものに香をたいた。彼らは自分たちの道、昔からの道につまずき 整えられていない、不確かな道を歩んだ。
18:16 わたしは彼らの地を恐怖の的とし いつまでも嘲られるものとする。通りかかる者は皆、おののき、頭を振る。
18:17 東風のように、わたしは彼らを敵の前に散らす。災いの日に わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。」
詩篇 69:8 わたしはあなたゆえに嘲られ 顔は屈辱に覆われています。
69:9 兄弟はわたしを失われた者とし 同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
69:10 あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。
69:11 わたしが断食して泣けば そうするからといって嘲られ
69:17 恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください 憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
69:18 あなたの僕に御顔を隠すことなく 苦しむわたしに急いで答えてください。
69:19 わたしの魂に近づき、贖い 敵から解放してください。
ヘブル 2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
2:7 あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、
2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
本日の日課のエレミヤ書の箇所では、主なる神様が、神の御声に聞き従おうとしないイスラエルの民に対し、災いを下して悔い改めへと導こうしている様子が語られている。
しかし、それに対し、イスラエルの民は「そんなことをしても無駄だ。我々は自分の思い通りにしたいし、かたくなな心のままにふるまいたいのだ」と言って、神に背を向けてしまうのである。
イスラエルの民のその後のことについては、ここでは語られていないが、おおよそ「神はなぜ我々を懲らしめるのか、なぜ救ってくれないのか」と言って神に対してつぶやいていくことになるのだろう。
なんとも言えないもどかしさを感じさせられるが、こうした行き違いが生じてしまうのは、人間と神との間に越えられない断絶があるからなのであろう。
人間は罪深く、自分のことしか考えていないのである。
一方で、もう一つの旧約の日課の詩篇の箇所では、エレミヤ書に記されているイスラエルの民の態度とは全く逆で、これほどまでに神を慕い求め、神に従って生きようとしているのに、そのことのゆえに、周囲からの迫害を受けてしまっている様子が伺える。
これは、神を信じない人たちが、神を慕い求める人に対して迫害を行っている様子を描いているように見えるが、後にイエス様が宮清の際、神殿で商売をする人たちから反感を買うことになったことに対し、弟子たちがこの言葉を思い出していることから、詩篇の言葉がイエス様の姿を預言しているものであるということが伺える。
イエス様は民のことを思い、民を救うために行動されたのであるが、イスラエルの民は、それとは全く反対に、イエス様を敵対視し、互いの思いが通じ合う事は無かったのである。
それでもイエス様は、ご自分のなすべき務めを全うするために、自らの歩むべき道を歩み、十字架の贖いの御業へと進んで行かれたのである。
多くの民が、イエス様のなさった御業の意味を理解していなかったかもしれない。
それでもイエス様は、淡々とご自分のなすべき御業を全うしていかれたし、いつか全ての人がイエス様のことを知り、イエス様の十字架の贖いの意味を悟り、信じてくれる日が来る、そう信じて、一人十字架の道を歩んで行かれたのである。
今は心が通わず、人と人とが断絶し、理解してもらえなくてもいい。その時が来れば、きっと理解してもらえるはず。だから、その時のために、今は淡々と成すべきことを成し遂げる。それがイエス様のなさったことなのである。
理解してもらえるならば、本当はそれが一番嬉しいことであるが、たとえ理解してもらえなくても、いつかきっと理解しあえる時が来ることを信じて、今は自分にできることを淡々とこなしていきたいものである。