出エジプト 6:28 主がエジプトの国でモーセに語られたとき、
6:29 主はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。」
6:30 しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」
7:1 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
7:2 わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。
7:3 しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、
7:4 ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。
7:5 わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
7:6 モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。
7:7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
7:8 主はモーセとアロンに言われた。
7:9 「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」
7:10 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。
7:11 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。
7:12 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。
7:13 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。

詩篇 100:1  賛歌。感謝のために。 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
100:2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。

マルコ 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

モーセとアロンがエジプトの王ファラオの前に対峙し、杖を用いて不思議な業を行った時、ファラオもまたエジプトの呪術師らに同じことを行わせたことが記されている。
モーセは杖を蛇にかえ、呪術師らもまた同様に杖を蛇に変えたという。
見た目には同じことが行われているように見えるかもしれない。
しかし、その目的は全く違う。
モーセらは、イスラエルの民を救うため、エジプトの呪術師らは、全くその反対の、イスラエルの民を奴隷のままエジプトに留まらせておくため、である。
奴隷の民を留まらせておくことは、エジプトの人たちにとっては楽で都合が良いからであり、イスラエルの民がどれほど苦労していようが、そんなことは彼らにとってはどうでも良いことであった。
もちろん、最終的には、モーセがエジプトの呪術師らにもできないような不思議な業を行ったために、イスラエルの民を解放することになるのだが、途中までは、見た目にはモーセの行っている業と呪術師らの行っている業とでは、区別がつかなかったのである。

マルコ7章の箇所では、イエス様の弟子たちが手を洗わないまま食事をしようとしていると言って、ファリサイ派や律法学者の人たちが批判をしてきたことが記されている。
ファリサイ派や律法学者の人たちは、見た目には神の戒めを厳重に守り、あたかも神を敬っているかのようにふるまっていたが、その心は、偽善に満ち溢れ、いかに自分を清く尊く立派な者であるかということを他人に見せるために行動していたようである。
11~12節に記されているような事柄は、自分を神に捧げてしまえば、もはや自分の父母に対しては何もしなくても良いといったような教えがなされていたことが伺えるが、そのような教えは、いかにも身勝手な律法の解釈から派生した偽りの教えであったし、律法の言葉の本来の趣旨を全く見えなくしてしまっているものであったと言えるのである。
イエス様は、律法の中心は、神を愛し、隣人を愛すること、と語られており、自分さえ良ければ他人のことはどうでもよいといった思いで行動しているような業は、神の御心から遠く離れた罪の結果そのものであることを示していると言える。
どのような行動が良くて、どのような業が悪いのか、何をするかが問題なのではない。
その行動の大元にある心の動機が問われているのであろう。
イエス様が何のために命まで捨てて私たちを救って下さったのかということを踏まえながら、救っていただいた者として、どう生きていくべきか、何をするかが問題ではなく、なぜそうするのか、絶えず己を吟味しながら、神の言葉を無にしないような生き方を選び取っていきたいものである。

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