出エジプト 4:27 主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。
4:28 モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。
4:29 モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。
4:30 アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、
4:31 民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。
詩篇 100:1 賛歌。感謝のために。 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
100:2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。
使徒 7:35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。
7:36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
7:37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
7:41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。
7:42 そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ、お前たちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え物を献げたことがあったか。
7:43 お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる。』
イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出し、神の律法の言葉を民に言い聞かせることでイスラエルの民を導く務めを任じられたモーセは、口の重い人であった。
そのため、モーセより雄弁な兄のアロンの助けを借りて、モーセはイスラエルの民を率いて行くことになるのである。
出エジプト 4:10 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
4:11 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
4:12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
4:13 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。
4:15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
4:16 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
モーセは確かに口が重く、人前で話すことが苦手なタイプの人間であったのだろう。
人前で話すことが苦手な人は、自分が話す言葉によって、それを聞いた人がどう思うかといったことにまで考えが及んでしまい、話す前に思い悩んでしまうからなのではないかと思う。
しかし、それだけ話す言葉について熟考しているということの裏返しでもある。
話す言葉について、真剣に考え、果たしてその言葉が適切なのかどうか、じっくり考えているからこそ、なかなか思うように話せないのかもしれないのである。
だから、モーセが口が重いというのは、単に人前で話すのが苦手というだけではなく、それだけ真摯に言葉に向き合っているからでもあろうし、言葉に対して誠実に取り組もうとしているからこそ、なのであろうと思われる。
それは、真実な言葉をもって、真実な行動を取ろうとしておられる神様のご性質にも通じるものがある。
主なる神さは、ご自分が愛のお方であり、その言葉が真実であるがゆえに、言葉が現実となって現れ、十字架において自らの命を捧げるほどに私たちを愛しておられることを成し遂げて下さったお方である。
言葉が真実であり、有言実行されたお方、と言えるのである。
コヘレト5:1 焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。
5:2 夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。
5:3 神に願をかけたら 誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。
5:4 願をかけておきながら誓いを果たさないなら 願をかけないほうがよい。
5:5 口が身を滅ぼすことにならないように。使者に「あれは間違いでした」などと言うな。神はその声を聞いて怒り あなたの手の業を滅ぼされるであろう。
5:6 夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
2コリント1:18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
1:19 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
1:20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。
言葉が真実であるならば、やたら言葉数を増やす必要はない。
むしろ、偽りを語ろうとする時、言葉数が増えるものである。
真実な業をもって、言葉を真実とされた神にならい、我々もまた真実な言葉だけを力強く語る者でありたいものである。