ヨブ 39:13 駝鳥は勢いよく羽ばたくが こうのとりのような羽毛を持っているだろうか。
39:14 駝鳥は卵を地面に置き去りにし 砂の上で暖まるにまかせ
39:15 獣の足がこれを踏みつけ 野の獣が踏みにじることも忘れている。
39:16 その雛を 自分のものではないかのようにあしらい 自分の産んだものが無に帰しても 平然としている。
39:17 神が知恵を貸し与えず 分別を分け与えなかったからだ。
39:18 だが、誇って駆けるときには 馬と乗り手を笑うほどだ。
39:19 お前は馬に力を与え その首をたてがみで装うことができるか。
39:20 馬をいなごのように跳ねさせることができるか。そのいななきには恐るべき威力があり
39:21 谷間で砂をけって喜び勇み 武器に怖じることなく進む。
39:22 恐れを笑い、ひるむことなく 剣に背を向けて逃げることもない。
39:23 その上に箙が音をたて 槍と投げ槍がきらめくとき
39:24 身を震わせ、興奮して地をかき 角笛の音に、じっとしてはいられない。
39:25 角笛の合図があればいななき 戦いも、隊長の怒号も、鬨の声も 遠くにいながら、かぎつけている。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

1コリント 12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には”霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ”霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ”霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の”霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の”霊”の働きであって、”霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

ヨブ記の箇所には、ダチョウと馬に関する事柄が語られている。
ダチョウは、羽根をはばたかせることはできても、飛ぶことはできない。
卵を産んでも、そのまま放置してしまうため、他の獣に奪われてしまうこともある。
それでもダチョウが絶滅したことはないし、きちんと子孫も増やしているし、なにより、ダチョウが走る時のスピードは脅威的である。
馬をも凌駕するほどのスピードで、まるで飛んでいくかのように走っていく。
ダチョウの羽根が小さくて飛べないほどであるのは、むしろ、その特性のためなのかもしれない。
そして馬については、走る事にかけてはダチョウのほうが勝っているかもしれないが、馬は、人間の扱う武器を恐れることを知らない。
むしろ、戦いを始める時の合図や鬨の声に反応して、勇敢に立ち向かっていくほどである。
人間の戦いや、武器の恐ろしさを知らないからなのかもしれないが、そのような特性は、戦いに用いる動物としては有益である。
ダチョウの性質にしても、馬の性質にしても、愚かと言えば愚かな動物なのかもしれない。
しかし、彼らの性質は、決して愚かなのではなく、人間が勝手に「愚かである」と決めつけているだけなのだ。
それが証拠に、彼らの特性は、はるかに人間の持つ力を凌駕しているし、どんなに背伸びしても、彼らを超えることはできないのである。

翻って、人間についてはどうだろうか。
私たちは案外、他人について「あの人はどうだ」とか「あの人はここが良くない」とか、あまりにも勝手に判断し、見下したりしてはいないだろうか。
案外、普段自分たちが見下しているような人たちが、意外な能力を発揮したりするものである。

話しは変わるが、今、我が家の子供たちは、期末試験の真っ最中である。
どんな試験なのか尋ねてみると、聞いたこともない単語や言葉で説明してくれた。
親も知らないような高度なことを子供らは学んでいる。
見下していたわけではないが、子供らの成長している姿を見るのは嬉しいものである。
これからも、どんどん我々も知らないような知識を増やし、社会に貢献する人材に育って欲しいと思う。

主なる神様は、一人一人、目的を持って創られている。
そして、個性や賜物を与え、世のため、人のために役に立つようにと願っておられる。
自分に託された務めが何であるのか、しっかりと見極め、同時に、他者に対しても尊敬の念を持ち、神様が一人一人に託された務めを全うできるように、共に人の世を、そして教会を建て上げていきたいものである。

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