ヨブ 38:39 お前は雌獅子のために獲物を備え その子の食欲を満たしてやることができるか。
38:40 雌獅子は茂みに待ち伏せ その子は隠れがにうずくまっている。
38:41 誰が烏のために餌を置いてやるのか その雛が神に向かって鳴き 食べ物を求めて迷い出るとき。
39:1 お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。
39:2 月が満ちるのを数え 産むべき時を知ることができるか。
39:3 雌鹿はうずくまって産み 子を送り出す。
39:4 その子らは強くなり、野で育ち 出ていくと、もう帰ってこない。
39:5 誰が野生のろばに自由を与え 野ろばを解き放ってやったのか。
39:6 その住みかとして荒れ地を与え ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。
39:7 彼らは町の雑踏を笑い 追い使う者の呼び声に従うことなく
39:8 餌を求めて山々を駆け巡り 緑の草はないかと探す。
39:9 野牛が喜んでお前の僕となり お前の小屋で夜を過ごすことがあろうか。
39:10 お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ お前に従わせて谷間の畑を 掘り起こさせることができるか。
39:11 力が強いといって、頼りにし 仕事を任せることができるか。
39:12 野牛が穀物をもたらし 実りを集めてくれると期待するのか。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

1コリント 12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

ヨブ記において、主なる神様は、人間はいかに何も知らないかということを語られている。
この世界の神羅万象についてほとんど何もわかっていないし、身の回りに生きる様々な動物たちの行動でさえ、知っているようで何も知らない。
それなのに、あたかも何もかも知っているかのように、テレビやインターネットで聞きかじった情報を元に、なんでも知っているかのように思い上がり、勝手に物事を決めつけてしまう。
本当は何も知らないし、こうすれば確実といったものもない。
それでも人は生きていく。
生きて行かなければならない。
どこにどんなリスク(危険)があろうと、生きていくためには行動していかなければならない。
行動に正解などない。
失敗することだってある。
それでも人は行動する。
なぜなら、人はそのために創られているからである。

創世記 1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

人はこの後、罪を犯し、額に汗して土を耕して働くことになっていく。
それは使命でもあり、宿命でもある。
しかし、それは、この世界が祝福されたものとなるためである。
もし何等かの口実を探して、それを拒否しようとするならば、それは、間違った情報か、あるいは、罪ゆえに間違った生き方を求めているからなのであろう。
人にとって、祝福とは何か、幸いとは何か、見誤ってはいないだろうか。
偶像とは、単に、キリストの神以外の他の神々とか、刻んだ像などのことだけを差しているのではない。
間違った生き方を追い求めているとしたら、それも偶像の一つに他ならない。

神は「あなたがたは神と隣人を愛しなさい」と言い「あなたがたは互いに仕いあいなさい」と言い、そして「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。
私たちの救いのための必要な御業は、全てイエス様が成し遂げておられる。
私たちはもはや、その事実を信じるだけで良いし、その約束の言葉を伝えるだけで、この世界に祝福をもたらしていくことができるのである。
一人でも多くの方がイエス様と出会い、イエス様を信じて救われ、その喜びに生きることができるようになるために、私たちに何ができるだろうか。
何をすれば良いか分からない場合も多々あるが、誰かの救いのために働き、行動し続けていていく者でありたいものである。

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