民数記 11:24 モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。
11:25 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。
11:26 宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。
11:27 一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。
11:28 若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。
11:29 モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
11:30 モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。
詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。
ヨハネ 7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。
イスラエルには、二つの大きな湖がある。
一つはガリラヤ湖、もう一つは死海である。
ガリラヤ湖は、ゴラン高原などから流れてくるヨルダン川の水を受け、イエス様の時代でもそうであったように、多くの魚が住む、富んだ湖であると言える。
飲料水や農業用水などにも用いられているようである。
一方、死海はガリラヤ湖を出た水が流れつき、世界でも最も低い土地に位置するために、そこから流れ出て行くことがないため、やたら塩分濃度が高く、魚一匹さえ住むことのできない環境となっている。まさに死海と呼ばれる所以でもある。
この二つの湖をたとえに、自分のために取り込むだけの生き方をしている者は、死海のように、命のない湖となるが、与えられた水を下流へと流し続けているガリラヤ湖のように、神から与えられた者を周りの人々へと還流していくような生き方をしている人のほうが、生き生きとした人生を送っている、といった風に語られることがある。
実に的確なたとえであると思うが、それは、神の恵みや救いの約束の言葉である福音のメッセージについても同様のことが言えるのだろう。
私たちは、神の恵みを受けて、イエス様の十字架の贖いと復活による救いの約束を頂いたものである。
しかし、それを受けただけで、自分のことろで終わってしまっているようでは、そこに次なる命は生まれない。
まるで死海のように、命のない世界となってしまう。
神から頂いた恵みに対し、その喜びを周囲に人々へ伝えて行く時に、そこには新しく救われる方が起こされ、命の生きる世界が広がっていく。
自分だけが救われていればそれで良いと考え、何もせず、じっとその場にとどまっているだけのところには、命は生まれないし、やがて自分も滅んでいくだけである。
もちろん、ガリラヤ湖から流れ出た水も、死海へ注がれていくだけで、何の役に立っていないのかもしれないが、少なくとも、ガリラヤ湖の水が還流し続けていることで、そこに住む生き物たちは生きていられるのである。
自分も毎日のようにブログを書いたり、メッセージ動画を配信したりしながら、一体、これで誰が救われると言うのだろうと思い悩むこともないわけではないが、少なくとも、神から与えられた恵みを受けて、少しでも誰かの慰めや励ましにでもなればと願いつつ、言葉として送り出していく。
そうすることによって、結果的に、自分自身も恵まれていくのである。
自分のことだけ考えるなら、このような働きを続ける意味もないだろう。
働きそのものよりも、「少しでも誰かの慰めや励ましになれば」という思いが大切なのだろうと思うし、そう思えばこそ、働きを続けられるのである。
イエス様は。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と仰せられた。
渇いているからこそ、イエス様のところにきて、神の恵みの言葉を聞き、そこから他者を潤す働きに携わることによって、結果的に、最も自分自身をも潤すことにもなるということを覚えたいものである。