エゼキエル 39:7 わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。
39:8 このことは到来し、実現する、と主なる神は言われる。それは、わたしが語った日である。

39:21 わたしは国々の間にわが栄光を現し、国々はすべてわたしの行う裁きと、彼らの上に置くわたしの手を見る。
39:22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
39:23 国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。
39:24 わたしは、彼らの汚れと罪に応じて行い、わたしの顔を隠した。
39:25 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。
39:26 彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。
39:27 わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。
39:28 わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
39:29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

ローマ 8:26 同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
8:27 人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

旧約聖書には、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されて、約束の地へと導かれていった時の、いわゆる「出エジプト」の出来事と並んで、神の偉大な救いの御業として、バビロン捕囚からの祖国への帰還のことが記されている。
バビロン捕囚からの解放と祖国への帰還の出来事も、出エジプトの出来事と並んで、旧約聖書における大きなトピックではあるが、出エジプトの出来事ほどは知られていないかもしれない。
出エジプトは、出エジプト記という書簡があるくらいだから注目されやすいが、バビロン捕囚からの解放の出来事も、本来なら、特別にそのことを記録した歴史書があってもいいくらいである。
そんなバビロン捕囚からの解放のできごとであるが、こちらも、出エジプトの出来事と同様、主なる神様の一方的な憐れみと、不思議な御業によって、ある日とつぜんに歴史が動いていった。
イスラエルの民が、何か行動を起こしたわけでもなく、むしろ、ほぼバビロンからの解放の可能性など皆無と考えられるような状況の中で、この驚くべき解放の出来事が遂行されたのである。
それはまさに神の恵みの御業に他ならない。
そして、それゆえ、この歴史の出来事を通しても、神の栄光が世界に現わされると語られているのである。

そして、それは、私たちの救いの事実についても同様のことが言える。
私たちには、何の力も、救いに値するような素晴らしい素質もない。
本来なら、絶対に救われはずのないような者であったものを、主なる神が一方的に愛し、憐れんで下さり、救いの約束を「恵み」として与えて下さったがゆえに、救いにあずかるものとされたのである。
だから、自分自身に何の力も功績も無くていい。
ただただ憐れみ深い主なる神の救いの約束を信じて歩んで行けば良い。
今、どんな困難な状況の中にあっても、主なる神様が私たちを愛し、お救い下さることは変わらない。
むしろ、こんな状況にあっても、私たちの救いの事実は変わらないのだと言い切れるところに、神の栄光が現わされていると言えるのではないだろうか。
どんな状況の中にあっても、聖霊様が常に私たちと共にいて下さるとイエス様も約束して下さった。
その約束は真実であり、私たちに与えられた救いの約束は永遠に変わることはなく、ここに神の栄光が現わされているということを覚えたいものである。

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