ヨエル 2:18 そのとき 主は御自分の国を強く愛し その民を深く憐れまれた。
2:19 主は答えて、その民に言われた。「見よ、わたしは穀物とぶどうとオリーブを お前たちに送り、飽き足らせよう。お前たちが国々の中で恥を受けることを わたしは二度と許さない。
2:20 北から来る者をお前たちから遠ざけ 彼らを乾いた荒廃の地に追いやり 先陣を東の海に、後陣を西の海に追い落とす。その臭気が上り 悪臭が立ちこめる。」まことに、主は偉大な御業を成し遂げられた。
2:21 大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。
2:22 野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり 木は実を結び いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。
2:23 シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために 秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
2:24 麦打ち場は穀物に満ち 搾り場は新しい酒と油に溢れる。
2:25 わたしがお前たちに送った大軍 すなわち、かみ食らういなご 移住するいなご、若いいなご 食い荒らすいなごの 食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
2:26 お前たちは豊かに食べて飽き足り 驚くべきことを お前たちのために成し遂げられた主 お前たちの神なる主の御名を ほめたたえるであろう。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
2:27 イスラエルのうちにわたしがいることを お前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
3:1 その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

ローマ 8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
8:23 被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

昨日は、多くの教会において、聖霊降臨日の礼拝が守れらたことと思う。
イエス様が約束された聖霊が下り、これを機に初代キリスト教会が誕生し、世界へ向けて福音宣教が進められていくことになる。
ちなみに、使徒2章の箇所には、この時のことが旧約聖書におけるヨエル書3章に預言されていたことが成就したものであるとペテロが語っている。
これ以外にも、イエス様のご生涯などを含め、新約聖書に語られている事柄の多くは、旧約聖書に預言されていたことが成就したものであると語られていることが多い。
実際、イエス様は旧約聖書において預言されていた救い主なるメシアの到来を告げるものと言え、古い契約(旧約)が実現したのが新しい契約(新約)であると言える。
しかし、本日与えられている日課の箇所を見ると、それとはまた違った趣旨のことが語られているように見える。
旧約聖書のヨエル書、ならびに詩篇の言葉には、主なる神が御業を「成し遂げられた」と語られ、一方の新約聖書のローマ書では、将来、神の栄光が現れる時、滅びの隷属から私たちも解放されて、天の御国の民として神の国に迎え入れられるといった風に、むしろ「預言」的な言葉が語られていると言える。
つまり、旧約聖書は預言の言葉であり、新約聖書はそれが成就したものと単純には言い切れないということではないだろうか。
むしろ、旧約聖書も新約聖書も、お互いに預言し、そして、成就している、と言う事なのであろう。
かつて神学校でお世話になった先生が「旧約聖書は新約聖書を通して、新約聖書は旧約聖書を通して解釈していくことが大切」と語っておられたことがあるが、まさに、その通りであると言えるだろう。
旧約聖書の言葉は、新約聖書においてイエス様が現れたことを知らなければ、その意味は理解できないし、新約聖書におけるイエス様の御業も、旧約聖書に関する知識がなければ理解を深めることはできないのである。
特に、本日与えられている日課では、新約聖書において、神の栄光の時がいつかやってくるだろうと預言し、旧約聖書において、神の御業は既に成就したと告げている。
神にあっては、「わたしは最初であり最後であり」「千年は一日のようであり、一日は千年のようであり」「昨日も今日も、いつまでもかわることのない」お方なのであり、時空を超越した、愛と恵みに満ちたお方なのでる。
そのお方が、私たちを滅びの束縛から解放し、永遠の命にあずからせるために、御子イエス・キリストを十字架に捧げることで救って下さったのであり、その救いの御業は、いつか完成するようで、既に成就した約束なのである。

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