民数記 17:6 その翌日、イスラエルの人々の共同体全体は、モーセとアロンに逆らって、「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」と不平を言った。
17:7 彼らがモーセとアロンに逆らって集結し、臨在の幕屋の方を向くと、見よ、雲がそれを覆い、主の栄光が現れていた。
17:8 モーセとアロンが臨在の幕屋の前に進み出ると、
17:9 主はモーセに仰せになった。
17:10 「この共同体から離れなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす。」二人はひれ伏した。
17:11 モーセはアロンに言った。「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、急いで共同体のもとに行って、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい。主の御前から怒りが出て、もう疫病が始まっている。」
17:12 アロンは、モーセの命令どおりに行い、集結している人々の中へ走って行った。疫病は既に民の間に広がり始めていた。アロンが香をたき、民のために罪を贖う儀式を行い、
17:13 死んだ者と生きている者との間に立つと、災害は治まった。
17:14 この災害による死者の数は一万四千七百人であった。コラの事件による死者はこの数に含まれていない。
17:15 アロンは臨在の幕屋の入り口にいるモーセのもとに帰った。災害はこうして治まった。

詩篇 99:1 主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。
99:2 主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。
99:3 御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。
99:4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め ヤコブに対する裁きと恵みの御業を 御自ら、成し遂げられる。
99:5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。
99:6 主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと 主は彼らに答えられた。
99:7 神は雲の柱から語りかけ 彼らに掟と定めを賜り 彼らはそれを守った。
99:8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神 彼らの咎には報いる神であった。
99:9 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。

1ペトロ 4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

昨日、全国を対象としていた緊急事態宣言が解除され、外出制限や営業自粛といった厳しい措置を講ずる時は、ひとまず終えることができた。
多くの人が不安と混乱の中、普段ならば有り得ないようなことも平然と行われたりしたのだろう。
今朝のニュースでは、ある地域の保健所の様子が紹介されていたが、PCR検査を受けさせろと電話で怒鳴られ、「お前では話にならんから上司を出せ」とか「帰り道に気を付けろ」といった脅迫まがいのクレームまであったと職員の方が語っておられた。
医療従事者や配送業者、スーパーの店員に至るまで、あってはならない差別や迫害も繰り返された。
しかし、このような状況の中にあっても、いつもと変わりなく社会インフラに携わってくださる方々がいたからこそ、混乱した社会の中にあっても、我々も普通の生活を営むことができたのである。
ある意味、命の危険にさらされる中にあっても、率先して身を挺して人々を助け、支えようとしてくださった方々と言えるだろう。
モーセやアロンも、疫病が蔓延する中、民の真中に走って行って、民をなんとかして助けようとしたと記されている。
一部の人であろうけれど、そのような人たちを差別するなど、あってはならないことであろう。
こんなことでは、さらなる流行がやってきた時には、果たしてこの国で、平和な社会が保たれるのだろうかと不安に感じる。
ウイルスも怖いけれど、人間のほうがもっと恐ろしい。
ウイルスは単なるきっかけに過ぎず、人間の社会が滅びるときは、人間自身が己の罪によって自ら破滅を招いていくのだろうと思わずにはいられない。
コロナの前に、人は自らの罪で滅んでいくのかもしれない。
だからこそ、聖書の御言葉が必要なのだ。
終わりの時が近づいているのかもしれない。
しかし、もしそうであるならば、ますます以前にも増して心を穏やかに互いの存在を労りあい、時には誰かを救うために自ら犠牲を支払うようなことになったとしても、愛と平和に満ちた世界を建て上げていくために、一人一人ができることを担っていけるよう心がけてことが求められるだろう。
そう考えると、このコロナウイルス禍は、人が自らの罪深さに気づき、神の御心に沿って生きるようになるために、神が与えた一つのチャンスと言えるのかもしれない。
ピンチはチャンスと言われるが、人間には災いとしか思えないようなことの中にも、何等かの神のご計画があるのだろうし、これらの事も益となるようなきっかけとしていきたいものである。

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