創世記 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
詩篇 31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。
31:3 あなたの耳をわたしに傾け 急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
31:4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
31:5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
使徒 6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
6:9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
6:10 しかし、彼が知恵と”霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
6:11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
6:13 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。
6:14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
6:15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
本日の日課の箇所には、故郷を離れ、旅立ったアブラム、そして、殉教の死を迎えるまでキリストの復活の証人として生き抜いたステファノのことが記されている。
どちらも、信仰をしっかりと保ち、ブレることなく、最後まで主なる神に従い通した人物として紹介されている。
どうすれば、これほどまでにブレない強い信仰を保ち続けることができるのだろうかと、羨ましい気持ちがしないでもないが、彼らが取り立てて強い信仰を持っていたのかと言うと、本当のところはそうでもなかったのではないかと思う。
使徒6章8節には、ステファノは恵みと力に満ちていたために、素晴らしい不思議な業やしるしを行ったと語られている。
つまり、彼の力の源は、神の恵みによるものである、ということであろう。
詩篇31篇の箇所にも、神の助けを求める作者が、恵みの御業によって助けてくださいと祈っていることが記されており、神の恵みこそが、何ものにも勝る力や行動を導いてくれるであろうことを物語っていると言えるのである。
人間の意思や考え、経験や力は、実はたいして役に立たない。
むしろ、反対に、自分の力に頼ることで、神の恵みを見えなくする方向へと引きずられてしまうだけである。
人間の力、特に、自分自身の力ほどいい加減で頼りにならないものはなく、もし、それらに頼っているとしたら、ステファノに議論をしかけて、勝ち目がないと思い、ステファノを批判し始めた人たちのように、他者を批判し、攻撃し、悪行へと突き進んで行くのであろう。
神の恵みのゆえに、愚かな自分でも、キリストの尊い贖いのゆえに罪赦され、救われたことを知っている者は、他者を批判する気になどなれないし、そもそも、自分がどれほどの者であるのかといったことを分かっているがゆえに、そんなことを行う資格などないことがわかるはずである。
しかし、それこそが、神の恵みのゆえに満たされる本当の力なのだ。
神の恵みによって満たされる力は、他者を批判したり、攻撃したりするためにエネルギーを使うのではなく、他者を愛し、慰め、仕えていくために自分に与えられた賜物を活かしていくのである。
今日一日も、神の恵みに生きる者でありたいものである。