箴言 8:32 さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。
8:33 諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。
8:34 わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい 戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。
8:35 わたしを見いだす者は命を見いだし 主に喜び迎えていただくことができる。
8:36 わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」
9:1 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
9:2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
9:3 はしためを町の高い所に遣わして 呼びかけさせた。
9:4 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。
9:5 「わたしのパンを食べ わたしが調合した酒を飲むがよい
9:6 浅はかさを捨て、命を得るために 分別の道を進むために。」

詩篇 134:1  都に上る歌。 主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
134:2 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
134:3 天地を造られた主が シオンからあなたを祝福してくださるように。

1ペトロ 2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。

ペトロの手紙には、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」と語られています。
悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口など、私たちは、いつからこんなにうす汚れた人間になってしまったのだろうと思う事があります。
子どもの頃は、もっと純粋だったはずなのに…などと思い返してみると、いえいえ、子供の頃だって、案外、友達の悪口を言ったり、ねたんだり、結局、子供の頃から何も変わっていないのだ、とも思えてきます。
けれど、さすがに乳飲み子の頃はどうだったかと言うと、正直、覚えていません。
けれど、母親の腕の中に抱かれて、お腹が減ったらお乳をのませてくれると、信じて疑わない自分がいたのだろうと思うのです。
忘れてしまってはいるけれど、100パーセントの信頼を持って、自分の身をゆだねることができていたのです。というより、そうするしか他なかったわけですが、私たちは、100パーセント信頼して自分の身をゆだねることをかつては自然と行えていたはずなのです。
いつからか自分の力に頼り、自分の思い通りに生き始め、結果として、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口など、罪にまみれたうす汚れた人生を自ら選び取ってしまっているのではないでしょうか。
主なる神様は、そんな私たちを救うため、御子イエス様をお遣わしになり、十字架において私の罪の贖いの御業を成し遂げて下さいました。このことにより、私たちは全ての罪を赦され、救っていただけるのです。自分の力や行いによるのではない、神の恵みの御業によって、私たちは救われるのです。
どうか、この恵みの約束に100パーセントの信頼を持って、喜びと平安のうちに信仰の生涯を歩ませていただこうではありませんか。

今日一日、あなたの歩みが、主の御前に乳飲み子のような平安なものとなりますように。

Write a comment:

Your email address will not be published.