イザヤ 25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
25:7 主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし
25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:12 主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
116:13 救いの杯を上げて主の御名を呼び
116:14 満願の献げ物を主にささげよう 主の民すべての見守る前で。
116:15 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
116:16 どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
116:17 あなたに感謝のいけにえをささげよう 主の御名を呼び
116:18 主に満願の献げ物をささげよう 主の民すべての見守る前で
116:19 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。
ルカ 14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、外出自粛や人と人との距離を保つなど、様々な制限が加えられる中、教会とは何か、どのような働きを進めて行くべきか考えさせる日々が続いている。
誰もが不安だから、その不安を和らげるための働きをになって欲しいと思われる方も多いだろう。
けれど、いろいろな制限がある中で、全ての要望に応えていくことは不可能であるし、最善の答えはなかなか見えてこない。
もどかしい思いだけが募っていく。
しかし、そもそも我々人間には、すべての他者の要望に応えていくことのできる力など持っていないし、本当にそれが最善な事なのかと言えば、必ずしもそうではない面もある。
理不尽な要求であったり、これだけのものをしてあげたのだから、その見返りを求めるというのも、なんだか変な話である。
イエス様は、他人を食事に招く時には、親しい人や、金持ちの人を呼ばず、貧しい人や病気の人、体の不自由な人たちを招くよう勧められた。
それは、見返りを期待しないためである、ということのようである。
見返りを期待しないということは、ギブ・アンド・テイクの関係ではなく、ギブ・アンド・ギブ、すなわち、与えていくだけの関係、ということであろう。
実際、イエス様のなさったことは、常にギブ・アンド・ギブであり、ギブ・オンリーである。
私たちに何等かの見返りを求めて救って下さったのではない。
とは言え、救われた者が神のみ心に従って生きるようになることを求めておられるが、それは、救われた者がそうすることで幸いになれるから、である。
イエス様にとって利益となるからではないのである。
私たちが幸いに生きるようになるため、という目的も、神が私たちに与えて下さった恵みに他ならない。
私たちには、恵みによって救われ、恵みの中に生きるようになる。だから、ギブ・アンド・ギブなのである。
どう生きて行けば良いのか見えにくい時代に、ギブ・アンド・テイクの枠組みの中で生きようとするのではなく、ギブ・アンド・ギブに生きられるように、あまりテイクに振り回されず、今の自分になにができるか、要らないと言われても、私にはそれしかできないのなら、それを続けていくことで良いのではないだろうか。