イザヤ 26:1 その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
26:2 城門を開け 神に従い、信仰を守る民が入れるように。
26:3 堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に。
26:4 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:12 主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
116:13 救いの杯を上げて主の御名を呼び
116:14 満願の献げ物を主にささげよう 主の民すべての見守る前で。
116:15 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
116:16 どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
116:17 あなたに感謝のいけにえをささげよう 主の御名を呼び
116:18 主に満願の献げ物をささげよう 主の民すべての見守る前で
116:19 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。
1ペテロ 1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
クリスチャンになった人は、みんな聖なる人であり、清らかな愛の持ち主であるかのように思われる人は多いだろう。
しかし、実際はそうではない。
全く逆で、自己中心で罪深い生身の人間のままである。
では、「聖なる者となりなさい」との御言葉を無視しているのかというと、必ずしもそうではない。
たとえば「聖書」という言葉を考えた時、それは、清らかな愛に満ちた「神」が語られた言葉であって、書かれている内容には人間の世界のドロドロとした出来事もたくさん書かれている。
それでも聖書が「聖書」と呼ばれる理由は、それが「神の」言葉だからである。
そう考えていく時「聖なる者」となると言う意味は、「神の」者となる、という意味であることに気が付くのではないだろうか。
神の者、すなわち、イエス・キリストの尊い命の代価を支払って神に買い取られた者であって、神の所有物として生きるようになる、ということなのである。
クリスチャンとは、そういう者である。
なにか、特別に清らかな愛の持ち主に変わったわけではなく、ただ、神の者として、神のみ心に従って生きるように導かれているだけなのである。
けれども、それゆえ、神の者とされた者は、どんなに罪深い者であったとしても、必ず神の国に入ることができるのである。
キリストの高価な贖いのゆえに、神の者とされた、救いとはそういうことなのである。