イザヤ 50:4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。
50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
50:6 打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
50:7 主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。
50:8 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい。
50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。
ヘブル 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
ヨハネ 13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
13:22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
13:24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
13:28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
昨夜、政府から緊急事態宣言が発表され、7つの都府県を対象に、さらなる外出の自粛などの要請が行われた。
法的な強制力はないとは言いつつ、下手に外出をすれば、住民らによって相互に監視もしくは警告されるような、最も好ましくない事態となるのではないかと危惧する。
当然、教会も例外ではないだろう。
もし仮に、信念を持って集会を開いたとして、大きな反発が起こるかもしれず、当分の間、たいへん厳しい環境の中、宣教の業を進めて行かなければならなくなるのだろう。
どこまでが許されて、何をすると批判されるのか、恐れと不安の中にありつつも、それでもなお、真の慰めを与えるための働きを続けていくためには、知恵が必要である。
イエス様も、苦難と迫害の中にありながらも、真の慰めを与えるために行動していかれた。
裏切られ、ののしられ、傷つけられ、見捨てられ、そして、殺された。
しかし、そのイエス様の死が多くの人を救ったのである。
福音の宣教が続けられなくなることは心が痛むことだが、そのような環境の中にあっても、きっとできることがあるのだろう。
イエス様はユダに裏切られたけれども、最後まで彼との交わりを大切にしようとされていた。
何ができるかわからないが、今だからこそ、心が沈んでいる方に、主イエス様にある慰めの言葉を届けていきたいし、共に希望を抱いて歩んで行きたい。