イザヤ 60:17 わたしは青銅の代わりに金を 鉄の代わりに銀をもたらし 木の代わりに青銅を 石の代わりに鉄をもたらす。わたしがあなたに与える命令は平和 あなたを支配するものは恵みの業。
60:18 あなたの地は再び不法を耳にすることなく 破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と 城門は「栄誉」と呼ばれる。
60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。
60:20 あなたの太陽は再び沈むことなく あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり あなたの嘆きの日々は終わる。
60:21 あなたの民は皆、主に従う者となり とこしえに地を継ぎ わたしの植えた若木、わたしの手の業として 輝きに包まれる。
60:22 最も小さいものも千人となり 最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。
詩篇 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
マタイ 9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
9:32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
9:33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
9:34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
イエス様は目の見えなかった人を見えるようにされ、口のきけなかった人をものを言う事ができるようにされた。
それは確かに「癒し」の業に他ならない。
しかし、イエス様は「癒し」の業を行われただけで、そのことを言い広めないよう戒められている。
確かにイエス様は病をもいやされたが、イエス様が望まれたことは、これまでできなかったことができるようになり、生活も仕事も自分の手でこなせるように、生きる力を与えることで、多くの喜びを感じることができるように願われたのであろう。
病が癒された人は、癒された時点で、そこで終わってしまうことが多い。
その先の、どう生きるのか、何のために生きていくのかといったところにまで目が開かれていくことが大切なのであろう。
病が癒されるように祈ることは自体は悪いことではない。
しかし、その先、癒された後、どう生きるのか、どのように用いられていくのかということのほうがもっと大切である。
そのことがしっかり固まっている人は、多少の重荷を背負っていても、病が癒されているかどうかに関わらず、心はそこへ向かおうとしていることであろう。
それが本当の意味で光のもとを歩んでいる人の姿なのだろうと思う。
イエス様が与えて下さるのは、生きる希望である。