イザヤ 29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される。」
29:15 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか 誰が我らに気づくものか」と。
29:16 お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか 「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか 「彼には分別がない」と。
詩篇 112:1 ハレルヤ。いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。
112:2 彼の子孫はこの地で勇士となり 祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
112:3 彼の家には多くの富があり 彼の善い業は永遠に堪える。
112:4 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
112:6 主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
112:7 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
112:8 彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。
112:9 貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
マルコ 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、 むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
時節柄、食事の前や市場に行った後で、きちんと手を洗うという事がいかに大切なことであるかということを思わされる。
旧約聖書の時代から、そういったことについての教えがあったということは興味深い。
ファリサイ派の人たちや律法学者らは、こういった教えを忠実に守り、人々を指導していたわけであるが、彼らの教えている内容自体は間違ってはいない。
しかし、その心のあり様には問題がある。
彼らは、イエス様の弟子たちに対し、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と批判しているが、彼らの主張のポイントは「なぜ昔の人の言い伝えに従わないのか」というところにあり、当然、その教えを忠実に守っている自分たちもそこに含まれており、つまるところ、「なぜ、自分たちに従わないのか」と言わんとしているのであろう。
御言葉に聞き従うのではなく、御言葉に聞き、守っている「我々」に従え、ということなのである。
御言葉に聞き、従っている「我々」に従えとの主張は、自ずと、その心が表ににじみ出てくる。
そのため、聞く者の心には、違和感が生じるし、反発心のようなものが芽生えてくる。
そして、なにより、主なる神様は、そのような者の心をよくご存じである。
この民は口先ではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとしておしえ、 むなしくわたしをあがめている。
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
願わくは、そうはならないように努め
口先だけで敬うのではなく、心から主なる神を愛し、敬い、常に神の近くにあり
人間から出た言葉ではなく、神のみ教えを語り、真摯に神をあがめ
神の掟を忠実に守りながら、人間的な教えと化して行かないように努めていく者でありたいものである。