申命記 24:17 寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。
24:18 あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
24:19 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。
24:20 オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
24:21 ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
24:22 あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
25:1 二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。
25:2 もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。
25:3 四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。

詩篇 15:1 賛歌。ダビデの詩。 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。
15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
15:3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
15:4 主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。
15:5 金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう。

1テモテ 5:17 よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。
5:18 聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。
5:19 長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。
5:20 罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。
5:21 神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。
5:22 性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。
5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。
5:24 ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。

律法に記された様々な戒めやルールについては、寄留者や孤児、寡婦といった社会的弱者が生きて行くことができるような愛と憐れみに富んだものがある。
戒めやルールというのは、そこに規定された文面をガチガチに守ることが大切なのではなく、その条文の背後に何が語られているのかということを汲み取り、理解して行動することが大切なのだろう。
原理主義という言葉やグループがあるが、聖書の言葉を一字一句、文字通り神の言葉として受け入れようとすることは、それ自体、悪いことではないのだろうけれども、本来、原理というのは、書かれた文字というより、その背後に流れている大切な思想といったような事を示しているのではないだろうか。
それこそ、律法の言葉の中には、畑で収穫するときに、一束忘れることがあっても良いし、むしろそうあるべきと語られているし、オリーブの枝を打ち落とす時も、あまりにガチガチに実を摘み取ってしまわないで、少しばかり残っていても良いし、むしろ、貧しい人たちのために残しておくべき旨が宣べられている。
何もかも原理原則で、「律法にこう書いてあるから、絶対にそれをやらねばならない」と主張する時、それは、自分自身で罪の裁きをも背負う事に通じることになりはしないだろうか。
原理原則などどうでもよいというわけではないが、できなくても仕方がないことだってあるし、むしろできないからこそ、イエス様の十字架がある。
だから、我々にできることは、弱い人や貧しい人への配慮を怠ることなく、神が我々にどう生きて欲しいと願っておられるのかということに心を留めながら、我々の能力のおよぶ範囲で、誠実に、できることをこなし、皆が幸いで平和でいられるように努めて行くことであろう。
ぶどう酒も「健康のためなら多少飲んでも良い」けれど、「飲まなければならない」ほどのものではない。
周囲の方々に対し、よき働きができるよう、健康維持にも努めていたら、それで十分、ということではないだろうか。

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